「Global Shapersと飲む。僕らの道プロジェクトー観光に立ち向かう社長編ー(前編)」

 

皆さんはGlobalshpers(グローバルシェイパーズ)という名前をご存じだろうか?

 

彼らは、世界経済フォーラムというスイス・ジュネーブに本部を置く非営利財団によって任命される33歳以下の若者たちで、多様なバックグラウンドを持ち、社会に貢献する強い意志を持つ人々によって構成されている。

世界400都市以上にハブがあり、5000人程度がグローバルシェイパーズとして活動している。

そうしたシェイパーたちが地域でコミュニティを作り、地域における社会課題を解決するプロジェクトなどを行うことを目的としているのだ。

 

今回、そのGlobalshpers(グローバルシェイパーズ)の皆さんにご縁をいただき、彼らは具体的にどのような人たちで、どういった活動を行っているのかを取材させていただいた。

 

社会に対して明確な意思を持ち活動している彼らの日々に迫るインタビュー企画。

第一弾は「GlobalShpersと飲む。僕らの道プロジェクトー観光に立ち向かう社長編ー」

ということで、筆者たちが彼らの飲み会に同席させていただいた際の記事を執筆する。

 

第一弾は前編と後編に分かれており、前編はシェイパーさんたちが想いを持ち、社長になられるまでの生い立ちや道のり、そして後編は彼らのビジョンやGlobalshpers(グローバルシェイパーズ)コミュニティに入って思うことをクロストークでお届けする。

 

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6月。少し蒸し暑くなってきた京都で待ち合わせ。

今日一緒に飲んでくださるシェイパーさんたちをご紹介しよう。(順不同)

まずは一人目、中川雄貴さんだ。

中川雄貴(Yuki Nakagawa)

「『美杉リゾート』=津市美杉町八知=の代表取締役社長。中山間地域である美杉町の特性を活かしたツーリズムを国内外に向け展開するほか、美杉町や県内外の飲食店やワークショップ、生音楽楽しめる「美杉むらのわ市場」の立ち上げや、同町で撮影された映画「ウッジョブ!」のPR活動を通じ地域活性化に活躍。ご自身の経営する宿だけでなく、宿を起点として様々な地域産業を巻き込んでいくことで地域全体を通した町おこしに向け様々な取り組みを行っている。三重県で最も外国人の宿泊客が多い施設としても知られている。ビール造りも行っており、近年では地域の農家と連携し、原材料の生産にも取り組んでいる。2013年にグローバルシェイパーズに選出。京都ハブ所属中。」

続いて二人目、今西建太さんだ。

今西建太(Kenta Imanishi)
株式会社デイアライブ代表取締役社長。立命館大学産業社会学部卒。現ソフトバンク株式会社、株式会社はてなを経て、現職。Web・ITを通して地域の振興や課題解決に貢献することを目的とし、行政と連携した多彩で魅力的なPR活動を展開中。最先端の観光PRの形をけん引するひとりとして、各地で講演なども行っている。2013年にグローバルシェイパーズに選出。京都ハブ所属中。」

 

共通して観光業の代表取締役であるお二人。彼らがどうその立場を引き受け、あるいは作っていったのか。

彼らが観光を通して何を見、感じ、シェイパーになったのかに迫る。

 

また今回は、急遽同じくシェイパーである品川皓亮さんも参加。後編記事終盤の彼の発言にも注目していただきたい。

 

品川皓亮(Kosuke Shinagawa)

「1987年生まれ、弁護士、現在は株式会社LiBソリューションパートナー。学生時代から旅とビジネスに興味があり、2011年に外国人旅行者と京都の伝統文化体験をマッチングするサービス「MeetUs Kyoto」(現・株式会社MeetUs)を創業。これまでに日本実業出版社より2冊の法律本を出版し、ダイヤモンド社より新著も出版予定(現在執筆中)。京都大学総合人間学部では哲学・宗教を専攻し、現在も仏教など東洋思想を独学で勉強中。」

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本日の一人目、中川雄貴さん

老舗温泉宿4代目の底力。観光の力で美杉に産業連関を

 

ー中川さんは美杉町で「美杉リゾート」を経営されていますよね。美杉町ってどんな町なんでしょうか。

中川さん(以下敬称略):三重県の津市美杉町は僕の生まれ故郷で。昔は伊勢の国の国司の町で輝かしい歴史があったのが、すごい衰退してしまっている。

自分が小学生の時は9000人近く人口があったのが、今はもう4000人くらいにまで減ってしまってる、そんな町やね。

 

美杉町。美しい山に囲まれている。

 

 

ー衰退の原因はなんだったんでしょうか。

中川:もともと基幹産業が林業やったけど、安い外材におされてしまって。戦後当時に植林政策で杉ヒノキをめっちゃ植えたものの、今は価値がすごい下がってしまって、林業自体も衰退してしまっている。その影響で職を求めて町を出る、っていう流れが出来て人口がどんどん減って、その結果さらに街が衰退していって、って感じやね。

 

ー美杉町ではいつ頃から旅館経営をされているんですか。

中川:今の僕の仕事はもともと割烹旅館からスタートしていて、今で87年くらい、僕が4代目なんよね。驚くことに、美杉町には、うちしか温泉旅館がないねん。

 

ーそんな中で中川さんは旅館経営を通じた町おこしに取り組んでいるわけなんですね。

中川:そうなんよ。ご存じのように、観光って今すごい勢いがある分野で。実は、うちの旅館はもう25年くらいインバウンドに取り組んでる先駆け的な存在やから、三重県の中でも一番外国人の宿泊客が多い。市ごとの統計があるけど、伊勢や鳥羽を抑えて津市が一番外国人宿泊客が多いのもその証拠で、津市が一番多いのはうちの旅館が引っ張ってるからなんよ。だからそうした観光を生かして関わる地域事業者を増やして町の経済の活性化に繋げていけないかということで、町をあげた町おこしに取り組んでいるというわけやね。

 

美杉リゾート。寒い時期は温泉、暑い時期にはプールも楽しめる。

 

ー観光で町おこしをと言っても色々あると思うんですが、どのようなビジョンを描かれているんでしょうか。

中川:観光っていろんな産業を紐づけることが出来る、という点でめっちゃ面白いんよ。

例えば今は、林業やってる人とか農業やってる人とか、いろんな人をつないで、体験型ツーリズムとか、地域内に産業連関というのを起こしていこうとしてて、そうすることでお金を地域内で回していこうというような取り組みをしてるねん。

なので、町はすごく衰退していってるんやけども、これから産業を新しく作るというような段階にいる自分としてはいるような感じやね。

 

ーそうした経営の傍ら、大学院にも通ってらっしゃるとか?

中川:そうそう。実はそうした経営と並行して、同志社大学ソーシャルイノベーションコースの博士後期課程に通っていて、研究も絡めて、行政や三重大学とも協力しながら、産学官民で頑張っていこうという活動もしてる。最初から大学院に行きたいって想いがあったわけではないんやけど、ネットワークができるやろうなというのもあったし、そこの教授に紹介されたというのもあって入ってみたのよね。でも実際入ってみるとSI(ソーシャルイノベーションコース)って面白い人がいっぱいいて、とてもいい刺激になってると思う

 

美杉リゾートで販売されている美杉の地ビール

 

ー例えば実際に地域の産物を生かした地ビールとかも作ってるんですよね、そういう商品構想もすべて練っていらっしゃるんですか?

 

中川:地ビールは、それまで大手メーカーしか参入の余地がなかったビール業界の領域に小規模醸造が解禁になったので、親父の代から20年前くらいに始めてて。

日本に流通するビールはほとんどホップも麦芽も原料が輸入なのよ。日本でも作ってはいるんだけど多くはないから、自分たちの地域で原料から作っちゃって将来的に全部オーガニックのビールを作っていこうって、原料の栽培を地元農家と協力してやってる。

 

社長になる直前、会社は民事再生。最初の仕事は謝罪から。

筆者の質問を熱心に聞いてくれる中川さん

 

ー代々続いた旅館を継ぐ、ということは大変なことでしたか?

中川:旅館業界は浮き沈みがめっちゃ激しくてね。バブルが崩壊して、阪神淡路大震災があって、リーマンショック、東日本大震災、そういう災害とか経済変動の影響をダイレクトに受けるのがこの業界やから。旅行形態自体も、団体旅行の大量輸送型から、個人旅行が盛んになってきて、かつメディアの発達で旅行の選択肢が増えてきてっていう風に大きな移り変わりがあったんよ。だから、不遇の時代はすごい長かったと言えると思う。

それで、その流れの中でたくさんの旅館が潰れる時代があって、実は、うちの美杉リゾートも僕の親の代で、僕が帰ってきた翌年の平成20年に民事再生してて。

だからそれを継ぐって、すごい大変やったのよ。笑

 

ーそうなんですね…!最初の方はどんな仕事をされていたんですか?

中川:そう。最初は、社員に給料も払えなくて、仕事は、業者さんにお金払えませんって謝って回ったりすることやった。当時社員が200人くらいいて年商30億くらいあったんやけど、一気に規模を縮小することになったわけやね。その当時はバブルの影響を受けてたから、スケートリンクもあったし、乗馬もテニスもできたんよ。笑

 

今西さん(以下敬称略):僕も最初に会ったときはリゾート会社の跡取りで苦労のない人やと思ってたけど、これ聞いてびっくりした。そんな苦労あったんやと思って。

 

中川:そうなんよね、実は。でも、民事再生することで迷惑をかけた方もいるし、人生が変わってしまった人もいると思う。そもそも民事再生はバックアップしてくれるスポンサーがいないとできないから、うちはほんとに幸運やったと言える。ほんと、感謝して、謙虚に生きていかないといけないと思っています。

しかも計画的に民事再生したわけではないので、金融機関や税金等々の返済で資金繰りには本当に長い間究極に苦しんで。民事再生の影響で全く借り入れもできへんし。深くは話さへんけど、最近やっと明るく話せるようになってきたわ。笑

 

ーそんなご苦労があったことを今こうして話せるって言うのも、心臓の強さが半端じゃないですね。

中川:なんとかなるっていうマインドなのよね。でも状況はかなり好転してきてて、社長になってからの4期はずっと黒字で、あと2年たったら借り入れなしでいけるようになるんやけど、もっと攻めたいから今借り入れの交渉に動いてたりもするんよ。あと2年も経たないうちにうちの会社は大きく変化するよ。

 

今西:お金を借りれて嬉しいっていう気持ちは経営者にしかわからへんからね。こういう話を起業しようと思ってる人にすべきやと思う。

 

経営者談義に花を咲かせるお二人

 

美杉の衰退と会社の衰退はリンクしている

中川:まあとはいえ、最初は何にもなかったけどねそんな覚悟。うちは民事再生した時もリストラはしてなくて、半分くらいの社員は自分から辞めていったけど、その中で残ってくれた人たちと、新しく入ってくれた人たちと、後は強く繋がった家族・兄弟たち、みんなが一丸となって今やってる感じやね。

 

ーそれほどの苦労をされても中川さんを突き動かすものはなんでしょうか。

中川:自分の頭の中では、自分のところの会社の衰退と町の衰退が完全にリンクしてるから。町の衰退ってうちの責任もあるんじゃないかって思ってて。というのも、この業種って囲い込みをしちゃうんよ。自分のところのホテルの施設の中にお土産屋さんからお食事処まで、その中で全部お金を落としてもらおうと思って全部作っちゃう。だから、旅館がダメになるとそれが地域の経済に大きな影響を与えてしまうことがあるねん。それがいま、町を回遊する体験型ツーリズム「Inaka Tourism」の提案と、域内での産業連関に重視した取り組みに繋がってる。

 

今西:そうなんよね。例えば城崎温泉のある豊岡市は面白くて、そんな考え方じゃない。温泉街自体をひとつの旅館ととらえて、街を作ってて。面白いよね。

 

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本日の二人目、今西建太さん

 

目立ちたいだけのサッカー少年だった

 

ー今西さんはどのような幼少期、青年期だったんですか?

今西:僕は、京都の木津で育ったただのサッカー少年で、小学校のときの思い出は運動場でボール蹴ってる記憶しかない。笑 サッカーしかしてなかった小学生生活やったわ。
中学の時もサッカーしかしてなかった。Jリーグがちょうど俺らの小学生のころくらいに開幕して盛り上がってたから、サッカーやってたら目立ったのよ。笑

 

ー勉強よりはサッカー、という感じだったんでしょうか。

今西:でも、中学になったらちょっと勉強できたほうがかっこいいんじゃないって思い始めて、勉強も頑張ってたね。やけど、美術の先生にだけは嫌われてて、どんだけ頑張ってテストの点数99点とか取っても美術の成績だけ3やってん。笑 まあでも、他は成績5取るようになって、成績も良くなって。サッカーでも中1で中3の試合とか出たこともあって順調で。中3になったときは、キャプテンになっていろいろ背負うのは面倒くさいと思ってたから、副キャプテンっていう一番せこいポジションになって、優等生タイプのキャプテンにまとめ役をやってもらって自分はやりたいことをやってた。笑

 

ーなんとも策士ですね。では高校に行かれてからもサッカーを?

今西:そうそう。そんなんやったから、高校もサッカーの強い学校に行こうと思って、立命館宇治っていう高校に推薦をとって入学したもののなんと1か月でサッカーやめちゃって。笑

なんでかっていうと、中学のときは全然サッカーを知らない先生にサッカーを習ってたから、強い高校に行けば自分たちではできなかった戦術とかを教えてもらえると思ったら、実はめっちゃ体育会系で、毎日ボール拾いとかで。またそこから出直しかと思って、あっさりゴールデンウィーク明けにやめてん。笑

 

幼少期から感じていたネットの「すごさ」を再体感したバンド時代

 

ー思い切った判断ですね。その次に何をやりたいとか考えてらしたんでしょうか。

今西:それまでの自分の人生ってサッカーしかしてなかったから、自分の一番の軸がなくなってしまって。やることがないし、自分が何かわからなくなってしまった。だから地元の友達と原付乗り始めたりして、半分やさぐれはじめたわけよ。でもこれではダメやっていう気持ちがどっかであって。そんなときに、友達に誘われてバンドをやり始めて、学園祭出るようになって楽しくなって、そうこうしてるうちに大学でもバンドを続けて、しまいにはコピーバンドじゃなくて自分たちで楽曲作るようになっていったね。

 

ーではまだ大学の頃には今のようなデジタルの分野を使いながら観光、とかいうことは考えてなかったんですね。

今西:考えては無かった。ただ実は、幼少期にネットってすごいなと思った経験はあって。ちょっと話はさかのぼるけど、ソフトの開発会社の社長をやってた父親が、当時サッカー小学生やった自分に、windows95を与えてくれたことがあってん。その環境でネットに親しんでて、サッカーやりながら夜ちょこちょこホームページとか作って、そこで世界とつながるような実感を得てたりもしたんよ。アメリカのサイトが見れたり、掲示板で全く知らん人と会話できるとかってなんかすげえみたいな感覚があった。

 

ー大学でのバンド活動にもそうした経験は生きていたんでしょうか。

今西:そうした昔の経験もあって、曲を色んなところで弾けるように、スタジオに自分たちで作った曲の音源を流したりしてて、そしたら運よく当時心斎橋にあったクラブクワトロからブッキングされて、あともう一歩でコンピレーションアルバムにうちの楽曲が入るかみたいなとこまで行って。笑 でも、もともとそのバンドが大学2回生終わるまでに芽が出んかったらやめようっていう約束で始めてたから、結局やめちゃったけど、でもネットの力をその時も感じたね。

 

懐かしのwindows95

 

9.11から得た課題意識

 

ーでは、ネットに対する関心は小さいころからあったんですね。社会的な課題感を持ち始めたのはいつ頃からですか?

今西:社会的な課題感を持ち始めたのは9.11のテロがきっかけやった。ちょうどその2週間前くらいまでカナダに研修旅行に行ってて、帰ってきてすぐにあのテロがあったんよ。金曜の夜やったと思うんやけど、テレビつけたらあの映像が流れてて、最初金曜ロードショーやと思ったくらいで。信じられなかった。

しかも俺この近くにこの前までいたんやと思ったら衝撃受けて、ただひたすらそうしたテロを起こす人に対して疑問やった。自分の命を捨ててまで、あんなことをやりたいってなんでおもうんやろう、と思って。そうして、テロリストに疑問が出て、国際社会学みたいなところに興味を持つようになったね。

 

ー大学でも国際関係を勉強されていたんでしょうか。

今西:そんな感じで、大学進学先の立命館大学(以下立命)で国際系の授業をとることにして勉強してて。その中でも、藤原帰一さんっていう国際政治学の教授の本がめっちゃ刺さったんよ。その教授の本は批評だけでなくて提案まで踏み込んでいたように思えたから。ぜひ会ってみたいと思って、調べたらたまたま広島で被爆者が集まるパネルディスカッションに出るっていうのを見つけて、即申し込んで、新幹線に乗り込んで行ってん。

 

ーそのイベントに転機があったんですか。

今西:そのイベントでは、アメリカ人と藤原帰一さんと何名かでパネルディスカッションしてたんやけど、被爆者の方の一番最後の質問に衝撃を受けたんよね。
「小さいときに妹が被ばくして、長年生きることができたけど、ずっと後遺症に苦しみながら生きてて、この前亡くなりました。すごく皆さんのお話は理解できるし、恨み合っても仕方ないのはわかるけれども、感情の奥底ではどうしても恨んでしまいます。どうしたらいいですか?」
っていう質問だった。その質問に対して、登壇してる人は誰一人答えられなかった。俺自身も、これが実体験した人の生の声かと思って衝撃的やった。

 

冷蔵庫の食材にチップが埋め込まれる未来を面接で熱弁してソフトバンクへ

最初のキャリアはソフトバンクで

 

ーバンドに課題意識に、二面性がある大学生だったんですね。そこから起業に至るまではどういう道のりだったんでしょうか。

今西:高校生の時から親の影響もあって自分で何かしたいと思ってたから経営とかリーダーシップ的なことのほうを勉強したいとは思ってたね。

ただ、当時の自分の課題意識って、「恨みとかをなくして世界を平和にしたい」みたいなふわっとした課題感やった。だから、JICAとか国連職員とかになろうとするんやけど、英語がめっきりダメやったから、どれも無理やな、となって。なんでそんな英語がダメやったかかっていうと、英語は将来googleがなんとかしてくれるって高校生の時思って勉強してなかったからで。笑 そこで俺ミスったって一瞬思ったけど、もうここでどうすることもできないなと開き直って、いろんな業界めっちゃ回って、NTTの説明会での通信やネットワークの作る未来みたいなのを見たときに、俺の小学生時代のwindows95の感覚が思い出されて、この業界ややっぱり!ってなったのよね。それでNTT系で最終面接まで行ったんやけど、そこで面接官と話が全然噛み合わず落ちて。笑

結果、縁があったソフトバンクに行くことにしたってわけ。

 

ーソフトバンクの面接でおもしろいことを言ったとお聞きしました。

今西:その当時から企画職がやりたかったから、面接のときに勝手に企画を持ち込んでたのよね。その企画っていうのが、こんなので。

「将来、なんでもチップが埋め込まれている時代が来ると思います。例えば、冷蔵庫の中にある食材の包装全部にチップがついていて冷蔵庫の中に何が入ってるかわかるようになり、スーパーのカートにはデバイスがついていて、そのデバイスに自分のアカウント情報でログインしたら自分の冷蔵庫の中に何があるかがスーパーにいてわかるようになります。さらにそれがわかるようになれば、あと何を買い足せばどの料理ができるかまで冷蔵庫を見ないでわかるようになります。加えてそれがスーパーのどこにあるかを知らせてくれればスーパーの売り上げにもつながります。」

みたいなことを言って、通信そのものを売るだけでなくて、通信の上に乗っけるサービスを考えていきたいって言ったのよ。そういう姿勢の人間をソフトバンクは面白いと思ってくれたんやと思うわ。それでソフトバンクは2回の面接で内定決まって、実際の配属もコンテンツ事業に配属されることになったというわけやね。

 

ーその後はいつまでソフトバンクに?

今西:当時は汐留のソフトバンクの本社で働いていたんやけど、母親が病気になって、半年後くらいに死ぬかもみたいな状態になってしまって。入社して5年目くらいやったけど、ソフトバンクをやめて京都に帰ってくることになってんよ。京都に帰ってきて、京都のウェブ関係の会社で唯一知っていた「はてな」という会社に入ることになって。

 

ー起業のきっかけになったことは何だったんでしょうか。

今西:そうこうしてるうちに、3.11があって。母が生死をさまよったこと、震災、そんなことが重なって、普通に生きていたら考えなかっただろう、命について考えることが増えた。それで、「いつ死ぬかわからん人生、やりたいことをやらないと後悔するな」って変に背中を押されたんよ。

こうして、一番経済が冷え込んでいたにもかかわらず、周囲の反対を押し切って、2011年の7月にDAY ALIVEを作ったというわけやね。

 

今西さんが作ったDAYALIVE

 

お金が底をついたとき初めて本気になった

 

ー会社を作られたあとは順調だったんですか?

今西:全然そんなことは無かった。会社は作ったけど3ヶ月くらいでお金がなくなってしまったやばい時期があって。正直最初は会社経営をなめてて、その辺のおっちゃんでも会社経営できているから、俺もできるやろって思ってたけど、現実はそんな甘くなかった。今まで自分は、「ソフトバンク」と「はてな」って看板を背負ってたから、大手企業の人が新製品の宣伝で挨拶しに来たりしてくれてただけで。何も肩書きが無くなったらただの個人なわけ。最初は元ソフトバンクなんですって言って信用してもらうしかなくて、それがめっちゃ悔しかった。

 

ー最初の仕事はどのようなものだったんでしょうか。

今西:お金がないからとりあえず借りないかんとなって。ただ、その一回借りたお金も使い果たしてしまった時期が来ちゃってね。

その時自分が取れた方法は2つで、1つはいろんなところに、とにかく片っ端から電話をかけて営業すること。でもそれはやりたくなかった。もう1つは、セミナーをやること。人前で話すのはソフトバンク時代に毎週のようにやっていたし、Webはこう活用すべきという想いや考えはあったから、それをそのまま伝えようと思ったんよ。

 

ーそのセミナーを軌道に乗せていったんですね。

今西:最初は初めての試みってことで、まずは無料でセミナーやって、聞きたい人に来てもらう形式にしてみた。その後、お金もらって有料セミナーやるときは会社の宣伝はしない、無料でやるときは最後に少し宣伝するっていう線引きをしてやってたら、一時期有料セミナーだけでご飯食べていけるんじゃないかってくらい依頼をもらえるまでになってん。でも自分はセミナーがやりたくて会社を作ったわけではなくて、自分の考えに共感してくれた人と仕事がしたいと思ってやっていただけだからさすがにそっちに振り切ることはなかったね。

 

ーその当時はどのような想いでやっておられたんですか。

今西:当時も今も変わっていないのは、うちの会社がただのwebサイト制作屋さんじゃなくて、webとかITとかできることを幅広くできるようになるということで。今も、webサイト制作屋さんではなくて,「web関係では全部任して、戦略考えるから」っていうお客さんにとってのwebマーケティング部になりたいって思ってやってる。

 

お酒も入りリラックスするお三方(左から品川さん、中川さん、今西さん)

 

 

ーそういったお仕事から観光系のwebビジネスをされるまではどのような経緯だったんでしょうか。

今西:当時、ソフトバンクホークスの仕事をソフトバンクの人につないでもらってやらせてもらったりもして。そういう実績を溜めながら仕事をしてたら、若い人に出資したいっていう思いを持ってる、ソフトバンクと関係のある企業の社長さんにつないでもらうことが出来たんよ。そこでさっき話したような会社への想いを話したわけ。そしたら、決算書もなんも見ずにその場で大きな金額を出資するって言ってもらえて。株の比率とかも考えていろいろ調整はして、結果的に僕らの身の丈に合った金額を出資していただくことにした。その方とは今もいい関係を続けさせてもらっていて、本当に感謝してるわ。

その方が背中を押してくれたおかげで、あまり自分は人にお願いするタイプではないんだけど、ベンチャー会社で働いていた友人に「今しかないと思うから、今の会社をやめてうちにきてくれ」って頼むことが出来た。彼は彼で組織内で抱えていた案件とかがあったのに、次の日には勤めていた会社に伝えてうち1本で合流してくれることになって。それで、ちょうどその時くらいから自治体関係の仕事が時折やってくるようになってね。

 

ー転機ですね。

今西:そう。一つ自治体関係の仕事ををやりきったことによって、ありがたいことにいろんな人に顔を覚えてもらって。めっちゃ大変な仕事やったけど、その仕事をやりきって、そこから同じような自治体関係の相談を受けるようになって、これが今のDAYALIVEの事業につながってるというわけやね。

それからは地域の振興とか課題解決にwebやITを生かそうということで、自分でやりたいところを決めてアプローチするようになって。

そうやって実績ができてきたら、地域の事業だけでなく観光関連の講演とか色んなところに呼んでいただけるようになって。今は、観光を中心にコンベンション〜国際会議〜の誘致だったりとか留学生を増やそうという取り組みだったりとかも仕事としてやってるんよ。

 

ーそれだけの苦労をして今ここまで会社の活動を広げられているわけですが、最初から覚悟などがあってのことだったんですか?

今西:やっぱり会社を始めて、お金が手元からなくなってやっと本気になった。その前もその時なりに真剣にやっていたとは思うけど、お金がなくなってやばいってなった時に、初めて人生に対して本気になったなと思うわ。27歳で起業して、28歳くらいで、やっと。

 

地域のエースで4番を計算して演出する

長門市のPR動画をこの前見ていて、すごくかっこよくて興奮しました。あのようなサイトは、お客さんの要望を聞いて形にするんでしょうか?それともこちらから型を提示するのでしょうか?

今西:まずその街や地域のエースで4番のような観光資源を教えてもらうようにしてる。例えば、あの動画も一番最後に元乃隅稲成神社っていう海に向かって鳥居が並んでいる神社が出てくるよね。あれは長門にしかない明らかなエースで4番。

ただ、その街にしかないものってのはなかなかないから、他の地域にもあるようなものがエースで4番となると、魅せ方は難しい。でも、その中でもユニークなものを打ち出さないとそこに行く理由にならないという軸をもっていて、どこにでもあるような場所であっても、そこにしかない良さや価値を深堀していく、そういう作業を行ってから表現していくわけやね。

 

長門市のPR動画にも出てくる元乃隅稲成神社の鳥居

 

ーエースで4番をどれにするかの選定も難しそうですね。

今西:地元の人からはひとつのスポットを押し出してしまうとそこで渋滞が起こるとか、賛否両論あるんやけど、その地域に人を呼び込むにはどうしてもそれを押し出す必要があると思っていて。例えばまた長門の例で言えば、仙崎イカや焼き鳥とか美味しいものもたくさんあるんやけど、食って結構難しくて、たとえば海鮮なら隣の街でも同じものや似たようなものが取れちゃったりすることもする。だからその地域の、その地域にしかない4番を見つけて、そこに紐づけていく形で「さらにこの街にはこういう食もあるよ」っていうのを提示するようにしてる。

 

ーやはりただ美しく作るとかではなくて戦略ありきなんですね。

今西:そういう風に考えて作らないと、なんか「ただいい感じに作りました」っていう作品になってしまう。デザインとアートは違うんよね。うちのデザイナーがいつも言っているけど、「アートは論理的に説明できなくていい。でもデザインには理屈が必要なんだ。」ってね。つまり、コンテンツを作るときは、論理的にそこに人が呼び込めることを計算しましたってのが説明できんかったらダメで。だからプレゼンとかで「なんとなくかっこいい」じゃなくて理屈がものすごく詰まっているものを作るわけ。それこそ、例えばその都市の観光計画や都市計画までを全部読んだうえでその都市が何を目指しているのかをまとめて、それらを全部把握した上で、推すべきものを決めて、それをデザインに落とし込む。

とはいえ、ぱっと見かっこいいってのも、それはそれでとっても大事。ユーザーはぱっと見しか見ないことも多いからね。パッと開いてしょうもないと思ったら消すよね?その一瞬の勝負もあるから、そこは両立させる必要があると思う。

 

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最初から明確に想いがあったわけではなかった。迷いながら生きてきた。それでも、彼らの奥底にある想いの芽は大切にしてきた。そして泥臭いことから愚直にやってきた。そうして今がある人の言葉からにじみ出る熱量は、話を聞いていて圧倒されるものがあった。

そんな熱量をこれからどこに向けていくのか。最終的に何を成し遂げていきたいのか。
彼らはなぜGlobal Shapersになったのか。気になる未来の話は後編に移る。

こうご期待!

 

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