【前編】「平安宮女はフィジカルモンスターだった!?」京都の寒すぎる冬を論理的に分析してみた。

京都の冬は非常に寒いです。

18年間東京で育ち、京都に来てから2度目の冬になりますが、なかなか適応することができずにいます。「芯から冷える」「底冷えする」などと表現される古都の寒さですが、これは体感の問題だけではありません。地理的に近い大阪と比べ、冬季の平均気温が実際に1以上低くなっています。三方を山に囲まれているため寒気が流れ込んできてしまうからだそうです。一方、このような盆地地形では、夏には空気がよどみ、とても高温多湿なります。年較差が大きいということです。


そんな京都に住んでいるうちに、ある疑問が生じました。決して人間にやさしくない気候にもかかわらず、なぜ京都は、歴史上かなり長い間、日本の中心として君臨し続けたのでしょうか。思えば朝廷は、奈良盆地東南部に誕生したのち、何度も遷都を行いましたが、794年に平安京に移って以降、(ごく一部の期間を除いて)実に1000年以上京都を離れませんでした。

たとえば、単純な気候面に着目すれば、年間を通じて温暖な気候の瀬戸内地域(降水量が少ないという欠点もありますが)のほうが都にふさわしいかもれません。なぜ京都なのでしょうか?日本列島のちょうど真ん中あたりにあり、東西に力を示しやすかったからでしょうか。また、三方の山で外敵から守られていたとも説明できるかもしれません。
今回は、京都の寒さと暑さ、そして京都が長く日本の都であった理由について、斬新な仮説を立ててみたいと思います。

京都市の地形モデル図(出典:京都大学小方研究室HP)

 

 

 

 

まず寒さについてみてみましょう。女性の着物として有名な言葉の一つに、十二単(じゅうにひとえ)があります。十二単は、今でこそ華やかな京都を想起させますが、一説にはこの寒さに対する防寒着だったとも言われています。同じような服を12枚も着込むという狂気の文化が発生するほどに京都は寒いということです。ふつう2,3枚着たところで「これ以上同じ材質の服を重ね着してもあまり効果がないのではないか」と気づきそうなもので、平安時代の宮女たちの知能には疑問を感じざるを得ません。

もし僕が平安宮女であれば、あれば、

まずしっかりとした肌着を着る、毛皮など風を通さないものをアウターにする、狂ったように長い自分の髪の毛をマフラーにする

など、十二単よりもはるかに効率の良い防寒対策をとっているに違いありません。十二単は総重量が20kgにも達するといわれていることから考えると、要するに彼女たちは、頭を使って防寒対策を考えることを放棄し、自らの肉体で20kgを背負うことを選び取ったフィジカルモンスターであるということになります。

十二単

 

ところでそうなると、「十二単は防寒着である」という前提にも疑問が生じてきます。
実は、
十二単とは現代におけるダンベルやバーベルにあたる、トレーニング器具の一種であった、とは考えられないでしょうか?つまり、宮女たちは、20kgの十二単を装着し、スクワット運動を繰り返すことによって自らの大腿四頭筋、大腿二頭筋(ハムストリングス)、大臀筋などを刺激し、これをもって暖をとっていたということになります。

 

スクワットによって強化される主な筋肉

 

このように推測すれば、「防寒として同じ材質の服を12枚着る」ことに対する疑問を解消するだけでなく、彼女たちが「することが和歌を詠むことしかなく体がなまっていた」こととも整合性がとれるでしょう。

 

では逆に、暑さについてもみてみましょう。

京都の夏の風物詩と言えば祇園祭ですが、その起源は869(貞観11)年にはじまった御霊会(ごりょうえ)にさかのぼることができます。この御霊会ですが、当初の直接的な目的は、蔓延する疫病を鎮めることであったといわれています。当時の京都は、人口が集中し、上下水道の不備で汚水と飲料水の混合が起こるなど、衛生状態が非常に悪化していました。その結果、マラリア、天然痘、インフルエンザ、赤痢、麻疹などの感染症がしばしば流行し、とくに高温多湿な夏場には、これらに脱水症状が加わり大量の死者が出たといわれます。

現代に生きる我々であれば、汚水と飲料水が混合した時点で間違いに気づきそうなものですが、平安人は常に我々の予想を上(下)回ってきます。彼らは暑さのあまり、疫病の原因が死者の怨霊や陰陽師の占いであるという、はなはだしい妄想へと至ったのです。こうして、この悪霊を鉾(ほこ)に移し宿らせるという御霊会が始まりました。今日の祇園祭でもみられる山鉾(やまほこ)はこれが由来となっています。京都の夏は人々の思考能力を低下させ、「炎天下に謎の巨大な鉾を引きずり回す」という奇行に駆り立ててしまうほど過酷だったのでしょうか。

 

祇園祭の山鉾


しかし、疫病が蔓延する状態で、いくら平安人に知識がなかったとはいえ、このような意味不明でしかも労力のかかる行動をするものでしょうか。そう考えると、悪霊を鎮めるためだった、という前提にも疑問が生じてきます。実は
山鉾とは、現代でいうトレーニング器具であったのではないでしょうか?
つまり平安京の男たちは、疫病に対する抵抗力を身につけるため、重量7トンにもおよぶ山鉾を引きずることで自らの肉体と精神を追い込んでいた、ということになります。真夏に行われたのは、おそらく汗をかいて減量するという意味合いからでしょう。

 

 

京都の気候がいかに過酷であり、そして平安京の人々がいかに鍛え抜かれていたかがお分かりいただけたでしょう。それではこれを踏まえて、なぜ京都が日本の都であったのかを考えてみましょう。言い換えると、平安時代が日本史上の他の時代に比べ、最も長く存続した理由を我々はどこに求めるべきでしょうか。

 

今回僕が主張したいのは、屈強な平安人の話からもお分かりの通り、京都は過酷な環境だった「のに」ではなく、過酷な環境だった「からこそ」都足りえたのではないか、ということです。京都が、自然環境面で、強い者しか生き残れない状態であったことによって、朝廷はその権勢を比較的安定的に、かつ長期にわたって日本の東西に示し続けることができたのではないでしょうか。奈良や鎌倉、江戸など平和ボケした遊園地に過ぎない、と平安人は思うことでしょう。

 

とはいえ、「過酷な環境に適応するために平安人は筋トレにいそしみ、朝廷が最強になって平安時代が長く続いた」とするのは、ふざけている、さらには歴史を冒涜している、と思う人もいるのではないでしょうか。しかし、そのように決めつけてしまうことがすでに平安宮女レベルの発想であると言わざるを得ません。では、逆に、「平安人が筋トレをしなかった正しい歴史」とはどこかにあるものでしょうか。

今日の最後に少し「歴史の歴史(史学史)」について話させてください。

歴史と、歴史認識は異なります。歴史は過去に起こった一つの真実ですが、歴史認識は十人十色です。古今東西、この二者が混同されることにより多くの争いが発生してきました。そもそも、政治と歴史とは未分化なものであったといわれています。これを根本から変えたのがドイツの歴史家ランケらに始まる近代歴史学です。
簡潔に言えば、近代歴史学の主要な意味は、「歴史を政治などの他者から分離して、純粋な資料のみで客観視する」ことにあります。歴史を偏見や悪用から掬いだし、その定義を正した功績はとてつもなく大きいでしょう。「近代歴史学」といっていますが、そもそも歴史学が学問として成立したのも近代歴史学からだといわれています。

しかし一方で、頑なに一つの真実を求めるような歴史観には限界があるのも事実です。人間が今を生きている一方で、歴史とは常に過去のことなのですから、究極的には正しい歴史にたどり着くなど不可能でしょう。私たちは科学的に証明できたことのみを正しい「歴史」として語ることができ、それ以外の不確定な部分については、口を閉ざしてしまうべきなのでしょうか。しかし、一つの真実に多様な解釈が存在してしまう矛盾を認めたうえで、近代歴史学より前に進むことも必要である、とも考えられます。

歴史は、科学的証明が及ばない範囲についても、時には後世の人による想像によって、なお解釈されるべきものなのでしょうか。皆さんはどう思いますか。

 

20世紀、歴史はこのような近代歴史学への疑問を受け、現代歴史学により新たに定義されるようになります。次回、後半では、この「厳しい気候が京都を都たらしめた」という仮説を裏付ける根拠、そして現代歴史学を踏まえた歴史の在り方について書きたいと思います。

 

この記事が、歴史の前提を疑い、そして筋トレを始めるきっかけになることを願ってやみません。

 

Sekine Ryo

Sekine Ryo

投稿者の過去記事

1996年生れ、東京育ち、京都在住です。
琵琶湖疏水で釣りをしていることがあります。
最近の悩みは、イヤホンの先のゴムみたいなやつがしばしばとれることです。
Twitter: @sekkii1996

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