【後編】「京都の気候が世界規模の南北問題のカギ!?」京都の寒すぎる冬を論理的に分析してみた。

前編では、京都の暑さ寒さと平安人の特徴について分析し、「厳しい気候が京都を都たらしめた」という仮説をたてました。後編では、それを裏付ける根拠についてみていきたいと思います。

 

たしかに上記のような仮説が、「風が吹けば桶屋が儲かる」的主張であると感じる気持ちは理解できます。
しかし一方で、「厳しい気候」のような「地理的要因が人類の歴史を決定づける」という仮説から説明できる現象は、古今東西多く存在します
視点を京都から世界に広げ、これについて少し考えてみましょう。

21世紀の現代、世界の富や権力が一定の地域(欧米・東アジア等)に偏在し、他の地域との格差が大きい状態にあることを否定する人はいないでしょう。
世界規模での経済格差を表す言葉の一つに、「南北問題」というものがあります。1959年にイギリスの外交官オリヴァー・フランクスが提唱した言葉で、豊かな国が世界地図の北側に、貧しい国が世界地図の南側に偏っていることを意味しています。
では、このような現代の格差の「根本的な原因」はいったい歴史上のどこにあったのでしょうか。時代をさかのぼってみましょう。1500年代にはすでに技術と政治の発展において、世界の大陸間の格差が確立しつつあったといえます。ヨーロッパ、アジア、北アフリカには強大な国家(帝国)が形成され、金属製の道具や武器が普及していた一方、たとえば南米の文明はもっぱら農耕と牧畜、そして石材に頼った生活を営んでいました。
1532年11月16日、スペインの将軍ピサロが皇帝アタワルパを捕らえインカ帝国が滅亡した事件は、まさにこの格差の象徴といえます。さらに四大文明が栄えた時代にもすでに他地域との格差があったとみなせるでしょう。では、11000年前、すなわち人類が最終氷河期を終えた時点ではどうでしょうか。この時点では、各大陸でほぼ同じ狩猟採集をしていたと考古学的には考えられています。そもそも人類が400万年以上前に、東アフリカという低緯度地域で誕生したことまで視野に含めれば、人間は南側のほうが本来暮らしやすいはずであって、より文化や技術が進歩するのでは、とさえ思えてきます。

この問題を考えるとき、ジャレド・ダイアモンドの著作は大きなヒントを与えてくれます。
ダイアモンドはアメリカの生物地理学(研究対象はそのほか多岐に及ぶ)者で、一般向けの書籍である『銃・病原菌・鉄』を出版し、ベストセラーとなることで日本でも広くその名が知られるようになりました。本の内容は非常に広汎ですが、彼の重要な姿勢をあえて要約すれば、「現代世界における富や権力の不均衡の原因を、専ら地理的要因から説明している」ことだといっていいと思います。

ヨーロッパが他地域にイニシアチブをとった経緯に的を絞ってみてみます。人類が初めて食料生産に成功した地域は、メソポタミア、中国、中米、南米アンデス地帯、北アメリカ東部でした。なぜ自然環境にめぐまれないヨーロッパが、結果的にこれらの地域に先んじることとなったのでしょうか。
これについて彼は、「プリエンプティブ・ドメスティケーション」といわれている有利性の問題に言及しています。これは野生の動植物を栽培や飼育して得られる利益より、すでに栽培・飼育されている動植物を利用したほうがずっと利益が大きく、管理もしやすいということを意味しています。

他方で、農業生産力や家畜飼育力をもった地域の民はなぜ強大な力をもてなかったのでしょうか。「かれらの工夫は動物においても植物においても、よりすぐれた種を求めて、それらを選抜し、改良する能力にこそ長けていたわけであって、その収穫物で交易するわけでも、まして他地域を侵略するつもりもなかったからだった。」と彼は分析しています。
当初から環境に恵まれた地域にくらべ一定程度厳しい状態に置かれた者はそれを盗み改良し、効率よく運用することで次第に元の地域を凌駕することになっていった、とみることができます。

 

ジャレド・ダイアモンド(1937~)

 

以上のようなダイアモンドによる仮説を、日本における京都に当てはめてみるのは興味深い試みではないでしょうか。
とくに日本には対外的ファクターが少なかったこともあり、世界に対するヨーロッパ地域の例をそのまま縮小して投影しやすいと考えます。農耕や鉄器の使用(四大文明レベル)が始まった弥生・古墳時代には、日本の中心は厳しい気候の京都ではなく大陸の影響を受けた九州北部や、温暖な大阪の沿岸部、そして大和政権が誕生した奈良盆地にありました。
京都はそれらの地域で生まれた富を吸収し改良することで、四代文明後のヨーロッパがそうであったように、794年ようやく中心としての地位にたどり着いた、とみることはできないでしょうか。

 

・・・どうでしたか。平安人が筋トレをすることから、このような壮大な仮説をでっちあげることには無理があると感じるでしょうか。僕も無理があると感じます。
しかし、僕が伝えたいのは、このように過去に思いをはせることには、内容の真偽を問わず大きな意味があるということです。前編の最後で途中になっていた、現代歴史学についてみてみましょう。

 

軽く前編をおさらいします。19世紀に出現した近代歴史学は、歴史を政治などの他者やそれによる偏見などから切り離し、歴史を学問と呼べるまでに高めました。しかし一方で、歴史は過去のものである以上、一つの客観的真実を突き止めるのは究極的には不可能である、という壁がある。これが前編の内容でした。

 

ランケに始まる近代歴史学は、100年の時を経て、このような反論の挑戦を受けることになります。現代歴史学の出発点です。イギリスの歴史家E.H.カーの『歴史とは何か』 にでてくる非常に有名な一節を見てみましょう。

 

歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である”An unending dialogue between the present and the past.”

 

カーの言葉は、想像により生じる偏見と、真実究明の不可能性という二律背反を超えた先にある、新たな歴史観を私たちにみせてくれます。
過去について様々な想像をめぐらせて、色々な仮説をたてて考えることには意味があるといえるようになります。それが真実である必要は必ずしもないのです。
なぜならば、それが歴史だからです。

 

だから、僕が平安人はマッチョだったと妄想しても構わないのです。前編で、平安人は妄想に取りつかれていたと書きました。思えば妄想こそ、我々日本人が平安時代より受け継いだ能力なのかもしれません。一節、平安時代の歌人・能因法師のエピソードを、古今著聞集から引用させてください。

 

>能因法師は、いたれるすきものにてありければ、「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」とぞ披露し侍りける。

(能因法師は和歌の道に極めて深く没頭した人であったので、「京の都を霞立つ春に出発したが、秋風の吹く季節になってしまった。この白河の関に来てみると」と詠んだものの、都にいてこの歌を発表してはつまらないと思い、人に知られないよう長期間家に籠もり、肌を黒く日焼けさせて後、東北に歌の修行にいった際に詠んだといって発表したということです。)

自分の妄想に対する執念が伝わってくる話ですが、僕は嘘であるという理由でこの歌の価値が下がるとは思っていません。
むしろ自分の頭の中だけで、これほどに美しい歌を作ることができた想像力に和歌の真髄を感じます。一方、能因法師が全国を回って歌を詠んでいたのは事実のようで、実際にはむしろこのエピソードのほうが後の時代の人が考えた創作なのかもしれません。そうであったとしても、これもまた本来の歌を毀損するものではないでしょう。
美しい旅の情景に対し、「実は家にこもっていた」という正反対な想像が加わることで、歌の楽しみ方の幅は格段に広がります。どちらが真実の歴史なのかは(おそらく)誰にも分からないでしょうし、分からないからこそ趣があるのかもしれません。そんなことを追究するのは野暮というものではないでしょうか。

人間の想像とは、品がなく不確かで、歴史を捻じ曲げるどうしようもないものです。しかし同時にそれは、深く、多様性に富んでいて、時に美しいのです。

人間は、自分たちの想像力という計り知れない力に助けられここまで来たといえるでしょう。私たちは今までも、そしてこれからも、妄想を受け入れなければ前には進めないのです。

私たちには、たとえそれが妄想である可能性が否定できないとしても、それでも泥臭く過去に目を向け、そこで見たものを未来に語り継いでいく責務があるのかもしれません。そして、仮説はできるだけ多いほうが、歴史の幅は広がります。
真実も解釈も、清濁すべて併せのんだうえで、できるだけ合理的な結論を地道に探っていくしかないのです。
そして、その営みこそが「歴史」それ自体だ、と今の僕は考えています。皆さんはどうでしょうか。

 

 

追記:

ダイアモンドの主張に関してはかなりの説明不足で、誤解を生みそうで後ろめたいのですが、長くなりそうなので深い追及はしませんでした。時間があればぜひ読んでみてください。名著だと思います。

 

ちなみに、ではなぜ京都より寒い東北や北海道が主導権を握らなかったのでしょうか。「アイヌ人が住んでおり文化圏が違った」と答えることもできますが、あえて気候面での説明にこだわれば、「逆に寒すぎた」と回答することができます。大陸の東側は西側よりも寒冷なため、これらの地域はヨーロッパで言うとさらに高緯度な北欧くらいになってしまいます。

 

今回のポイントをまとめると次のようになります。

・京都は寒い

・十二単は寒さから生まれた

・平安時代の宮女はニシローランドゴリラである

・平安京はトレーニング設備が充実していた

・京都から見れば東京など遊園地に過ぎない

・京都の気候は世界規模の南北問題を考察するにあたり重要なことを示唆している

・平安宮女の髪は多すぎるが、ジャレド・ダイアモンドの髪は少なすぎる

 

 

 

Sekine Ryo

Sekine Ryo

投稿者の過去記事

1996年生れ、東京育ち、京都在住です。
琵琶湖疏水で釣りをしていることがあります。
最近の悩みは、イヤホンの先のゴムみたいなやつがしばしばとれることです。
Twitter: @sekkii1996

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