たんなる歯車にならないために―新入生に伝えたいこと

 大学の新学期2017年度がはじまり一月ほどが経った。
 新入の学部生、まず、おめでとうございます。
 自分が大学の門戸をくぐったのが3年前という事実に、焦燥と感慨深さを覚えています。
  
 「大学は学問の場」そう信じてこれまで生活をしてきて、振り返るとふと気になることがあった。
     
 大学は一般的に124単位を取得すれば卒業できる。もちろん、教職課程のような場合はその限りではないが、基本的に124単位があればいい。最低124単位あればいいのであって、160単位取得しても、180単位取得しても、あるいは200単位取得しても怒られることはない。200単位を4年で取るとすると、1年間に50単位なため、さして難しいことではないが、多くの学生は卒業要件に足るところで履修登録をしなくなる。 


最終年次に訪れる就活 

 

 この傾向は最終年次に顕著な傾向で、その要因は多分に「就職活動」にある。「ES」「志望動機」「自己PR」「面接」を処理することで多忙を極める時期が最終年次なのだから、うかうか履修していられないというのは、その通りのことだろう。

「労働市場」で勝つためには人事担当者に自らが職務遂行上どの程度有用かをアピールする必要があり、「自己PR」をしなければならない。これがいまだ働いたことがない人に向けられる場合、その領域でどのように活躍できるか分からないのが当然の答えだろう。しかし、それは許されていない。

 

掘り下げてみると、日本における教育は、文部科学省通達ないし教科書検定で統御されており、ベーシックに画一化されている。実感として、「個性」を伸ばす教育が行われているとは言い難い。
 これは逆説的には統一化した均質教育が成功していることを表す。つまり、これまで行われてきた教育はその目的を十全に満たしているし、大成功しているのだ。


 日本が資本主義経済体制ないしグローバル化に組み込まれた際に、読み書き算盤ができる市民ー労働者ーが必要とされるようになった。そこで整えられたのが、現在にも続く画一教育である。それは粛々と行われ、子どもたちはその枠の中で懸命に学んだ。
その甲斐あって、ある程度優秀な市民が生まれ、経済は成長軌道に入っていく。安定的に「勤勉」と形容される労働者が生成されたのである。それがすでに60年以上2〜3世代にわたって行われてきており、奏功している。
  
 いや功を奏しすぎた。いま教育を受ける人間の中で重要なことは「いかに目立たないか」や「いかに周りに同化するか」といったものとなっている。
 つまり、画一的な市民を作ることを目的とした教育が、「画一化された市民」という存在に規範性・正当性を生み出していて、それを敏に覚知した子どもたちがそこから逸れないようにすることで、さらにそれが促進されているのだ。なるほど、画一化されていても別に恥ずかしいことではないということになる。だってみんなそうだもん。

 このような形で、あまりにも早くー20歳前後でー川の下流にある石のように丸くされた人間が労働市場に出る。この時点でどれもこれもさして変わらない、換言すれば代替が可能なヒトばかりとなっている。さらに、就職支援と銘打ちお金を稼ぐビジネス人たちの「想定問題集」や「自己PR例集」が、それまでの「教科書」と同じ機能を果たし、どれもこれも変わらないESや自己PRになっていることは想像に難くない。
 そうであれば、このように「採用」が行えていることを考えると、自己PRのあまりの無用さにため息が出ないだろうか?  しかし、そこは予定調和と放置すべきなのだろうか?  そうではないだろう。というのも、代替可能性があることで使用者は被使用者をひっかえとっかえすればいいので、労働者を大切にしようとは思わない恐れがある。しかし、残念なことにそれは自然な発想である。「労働力」でしかなく、そもそも個人的資質・能力で採用しているわけではないためー繰り返すが代えが効くためー別にどう扱ってもいい。そのような傾向の存在感が労働市場全体から漂ってこないだろうか? 

 

新入生に伝えたいこと
 

(出典:http://www.u-presscenter.jp/)

 
 さて、新入の学部生たちに大学での過ごし方について、老来から言わせてもらいたいこと、実はこれが冒頭の気になることなのであるが、授業・講義で単位をとることについて、「何回休めるか」とか「何点で単位が取れるか」例えば、「15回の授業のうち2/3は出席すること」という単位取得条件を「5回は休める」と読み替えたり、「単位が取れるならテストは60点でいい」と考える人が多いが、それはどうなのかということである。確かに、少ない労力で単位が取れることはいいことなのかもしれないが、内実を問われた時に疑問符がつく場合、それは「価値」があるのだろうか?

コンビニで100円だったペットボトルの水が、スーパーマーケットでは90円だった。このような場合、スーパーマーケットで買い物をするー少ないコストで消費行動をするー消費者は「賢い」というのは明らかである。

しかし、これが大学の授業に当てはめられた時は一様ではない。2単位を取っても授業・講義内容が血肉になっていないならば、それは空疎なのではないか。それはまるで、スーパーマーケットで安くペットボトルの水を買ったはずが、水が入っていなかったというようなもので、内的価値が見られないということなのである。そのため、制度的に単位があっても、こと内実性に関するとき、見るべきところがない恐れがあるのである。

 
 これでは、大学院に進学しない限り最後となる、就学機会を無為にすることとなる。これでは芸がない。余沢を受ける絶好の機会である高等教育機関での学びを最大限に活かすために、いやたのしむために、授業にはできるだけ出席し、そして期末もじっくりと学問に向かい合って欲しい。もちろん、期末でなくとも、じっくりと。一人ひとりが異なった授業を取ることが許される大学で、必死に受講し、学ぶことは、高校までの統一された教育とは異なる結果をもたらすであろう。
 
 もちろんこれは他の活動にも言える。学問を軸としながら行われる、部活動やサークル活動、学生団体の活動、ボランティアに精魂を傾けることで、代替可能性を脱する贅肉が得られることはありうるだろう。

 

 

 

【あと書き】

 重ねて、新入生、入学おめでとうございます。一見、暗い話をしたようですが、畢竟、学問に打ち込めば、交換がいつでもできる機械の部品ではなくなるよね、と言っている(つもり)です。すなわち、歯車ではなく「わたし」になろうじゃないかという希望に満ちたメッセージです。

 

それでは、みのり多き大学生活を祈って。

 

 

斉藤亮太【思想・哲学・宗教、政治、文化】

投稿者の過去記事

私に「社会不適合者だ!」と言ってくる人がいますが、それならば社会が私に合わせればいい。え? 合わせられない? そんなに能力低い社会なら変えないとねぇ。
座右の銘「まず疑ってかかるのが科学です」ー

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