岩手中二男子自殺~真の原因とは?~

「担任が悪い」で終わっていいのか

岩手県矢巾町の公立中学校にて、2年生の男子生徒がいじめを原因に自殺に至った事件について、もはや知らない人はいないだろう。

この件がこれほど話題になっているのは、いじめによる自殺というショッキングな内容だけが原因ではない。

事件を取り上げた記事のほとんどで、担任教師の行動に焦点が当てられている。

被害者生徒と担任の教師は、「生活記録ノート」というノートを用いて、毎日、メッセージのやり取りをしていた。
そして、そのノートには、生徒からのSOSが数回にわたって記述されていた。
それにも関わらず、担任教師が具体的な対策を講じなかったというのである。

一方で、担任が対策を行わなかったというのは偏向報道であり、実際は担任はクラスでも十分話し合っていたという声も上がっている。

その真偽のほどは今はまだわからないが、ともかく今回の一件は、実際のところは、担任の行動の良し悪しだけの問題で済ませていいものではない。

もっと踏み込んで「なぜ自殺を止められなかったか」を考えることで、学校現場の抱える課題が見えてくるのである。

もし、担任が悪かっただけなら、同じことはもう二度と起こらないはずだが、果たして本当にそうだろうか?

担任が悪かっただけというならば、それはもちろん大問題ではあるが、まだましではないか。
まだまだ大きな問題がたくさん隠れていないだろうか?

今回の事件では、担任教師の対応の異常性に紛れて、見落とされている部分があまりにも多い。

第二、第三のケースを防ぐために、いじめ事件の本質について、今一度考える必要があるだろう。

 

「生活記録ノート」とはなんだったのか

まずは、話題に上がっている「生活記録ノート」について。
このノートは、おそらくクラス全員が個別に持っていて、全員が毎日先生と一言ずつやりとりができる性質のものだろう。

ここでのやりとりは、いじめっ子に見られてはいけない。したがって、ノートは、パーソナルなもののはずである。

ほんの数行のメッセージとはいえ、1クラスおよそ40人分。
これを毎日読み、一人ひとりにコメントを返すことは、多忙な中学教員にとって相当な負担だ。

中学教員は、クラス担任を受け持つとなると、
通常の授業準備、授業実施、成績管理などに加えて、
毎日の生徒の出欠管理、遅刻・早退の把握、生徒の進路の把握、
進路だけでない生徒一人一人のパーソナリティの把握、
そのための二者面談、三者面談、保護者対応、
生活指導、学級運営など、
様々な業務を行う必要が生じる。

さらに、人によっては部活動の指導も担当しており、
まともな休日がないというケースも少なくない。

そんな中でも、生徒のことをよく知るために、
このクラスには「生活記録ノート」が導入されていたのである。

これは、学校全体で行われている取り組みだろうか?それとも、担任教師の独自の取り組みだろうか?

学校の方針だったとした場合、他の教員も、このノートの存在を知っていたことになる。
とすれば、担任だけでなく、学年主任や教頭、校長といった管理職の人間が、
特に注意すべき生徒のノートには目を通してしかるべきだろう。

今のところそのような事実は現れていない。

では、担任教師の方針だとすれば、この教師は非常にやる気のある人間だったことがわかる。
上記のように多忙な中、この実践を続けることは並大抵のことではない。

そのような熱意ある教員が、このような結果を招いてしまったというのだろうか。

いじめ問題は非常にデリケートな問題だ。
「下手に刺激をして、いじめがエスカレートしてしまったら…」
そう考えて、対応が慎重になることも分からなくはない。
結果、この担任は、適切な対応ができなかったのかもしれない。

もしかすると、生徒の性格や、クラスの雰囲気から総合的に判断して、この担任でなくても同じ対応をとったかもしれない。
自殺が起こってしまったことは、ある種、結果論なのである。
どんな対応が正解だったかなど、その場では到底分からない。

教師間での協力はあったのか

しかしここでまた、新たな問題が浮上する。

そのように判断の難しい問題を、この教師はなぜ一人で抱え込まなければならなかったのだろうか?

今回のケースの異常な部分は、他の教員の誰も、この件について語れる者が現れていないということである。

教員同士の横や縦のつながりはそこまで希薄だったのだろうか?

中学校であれば、科目ごとに担当教師が異なっていただろう。
他の教師も、該当クラスに週に何度も顔を出しているはずなのである。
クラスでいじめがあれば、指導に支障が出る場合もありうる。担任一人の問題ではないのだ。

授業の段階ではいじめに気づけないにしても、担任教師から、他の教師へ相談があってもよかったはず。
しかし、今のところ、そのような相談を受けたという話は出ていない。

ここでの問題とは、教員間のコミュニケーションの問題、ひいては、学校という組織の風通しの問題である。

この担任に、なんでも相談できる/いつも気にかけてくれる先輩・同僚はいなかったのだろうか。

あるいは、学校内で、教員同士の情報交換がなされるような仕組み作りは進んでいなかったのだろうか。

前者の場合、このような教師は同じ学校に他にいないだろうか。
いるとすれば、今回の痛ましい事件は、まだ氷山の一角の可能性が十分にある。

他にはいないとしたら?「ならよかった」とは決してならない。
他の教師に相談できないのがこの担任だけだとすると、それはもはや、この担任教師がいじめられていたようなものではないか?
それも、先輩や同僚の教師たちによって、である。問題の根は、さらに深いと言わざるをえない。

学校の教員間の仲は、うまくいっていたのだろうか。
教員が一丸となって”チーム”になれていない学校で、生徒は幸せな学校生活を送れるだろうか。

そのような教員組織は、全国にここだけだろうか…?

学校教員は確かに多忙である。他の教員の仕事にまで気を払っている余裕はない。
校務分掌という業務分担の約束があり、担当がはっきり分かれているのだから、自分の担当は自分でやれ、と思っている人も少なくないのではないか。

しかし、多忙だからこそ、教員同士は協力し合い、助け合い、情報交換し合い、組織として学校を作っていくべきなのではないか。
個人の集まりであってよいはずがないのである。

教員間の縦横のつながりの希薄さ、あるいは情報交換や助け合いの認識の低さ、これが多忙さを促進している一つの原因だと言えるだろう。

このような教員組織の在り方については、それだけで一つの記事にできるものなので、また別の機会に紹介したいと思う。

あるいは「事なかれ主義」なのか

もう一つ、担任教師は他の教師にも相談していたというケースについても考えてみる必要がある。

その場合、現状、いじめについて語る教師が現れない。また校長は「知らなかった」としているというのは、隠蔽という他ない。
もしそうならば、遺族にとって、それ以上になにより生徒本人にとって、全く誠実でない対応である。

そのような可能性が捨てきれないという事実だけでも、学校現場の改革が一筋縄でいかない背景が感じ取れる。

“事なかれ主義”がはびこっている可能性が高いのである。
はみ出すことを嫌う”事なかれ主義”のもとでは、教育機関としての責任を果たせないだけでなく、これから先、グローバルに活躍できる突出した人材を育てることもできないだろう。

教員組織の結束力、学校にはびこる事なかれ主義、このどちらにしても、時代にそぐわない学校の組織体制に不信感を抱かざるを得ない。

 

いじめの「関係者」はだれか

続いて、
「いじめの関係者は誰か?」という問題である。

これは最も重要な問題であると言っても過言ではない。

ここまで、担任教師に責任を押し付けたところで本当の解決にはならないのではないか、と問題を提起してきたが、学校の責任を考えるという範疇は抜け出していなかった。

しかし、いじめ問題に責任を持っているのは、果たして学校だけだろうか。

今、みなさんの頭には、加害者の生徒たち、その保護者たち、被害者の保護者、いじめを黙認していたクラスメイト、そしてあるいは被害者本人、など多数の候補者が浮かんでいるだろう。

その全てが、いじめの関係者であり、責任の保持者である。

いじめの責任とは、関係者全員にはっきりとあるものなのである。

責任の自覚に、重い/軽いはない。

「自分には関係ない」と考え、他のより明らかな関係者に責任を押し付ける。
この認識が、いじめの温床となっているのである。

例えば、保護者が皆、教師に日頃から協力的であったら?
保護者と教師は、共に子どもを育てていく同志なのだと、お互いに認識できていたら?

クラスでの異常は、教師の口から迅速に保護者に伝えられるだろう。
いじめがエスカレートする前に、食い止めることができるやもしれない。

この、保護者と教師の関係性を構築するところから、教師の仕事だとする意見もあるだろう。
しかし、教師が一方的に保護者に歩み寄るには限界がある。
担任教師は、クラスの生徒の数だけ保護者に歩み寄らなくてはならない。
1日の大半は、若くて元気な生徒の相手をしながら、全員の保護者に使える十分なエネルギーは、とても持ち合わせていないだろう。

それなら、自分の子どもをしっかり見てもらえるように、保護者の方から教師に歩み寄る必要があるというのは明白だ。

これは、保護者のためでもあり、なにより子どもためでもある。

子どもに関わるすべての人が、子どもをよりよく育てたいという同じ目的を持った仲間だという認識が、あまりに欠けているのではないか。

いじめに限らず、事故や怪我など不測の事態があったとき、誰を責めるのでもなく、一丸となって子どものために動くことができる。
そんな関係を構築することが、教育に携わるすべての大人の役割ではないだろうか。

教師だけではない、親からも、先輩からも、同級生からも、子どもはあらゆることを学び取る。
その意味で、全員が教育者なのである。

その自覚が足りないばかりに、子どもにとって必要な対応が取れないことがあるのではないか。

今一度、全員が、自分の考え方を見直すべきである。

今回の事件、担任教師が適切な対応を取れなかったのは、本人の力量の問題だけでなく、適切な対応を取れない環境を、知らず知らずのうちに周りが作っていたのかもしれないのだ。

北川哲平

北川哲平【教育】

投稿者の過去記事

NPO法人ROJE/現代の寺子屋Tera school/ALL関西教育フェスタ/滋賀県立守山高校学校評議員など、教育の分野で幅広く活動中。世の中のあらゆるものを教育の視点から語り、読む人の教育の定義や日常の思考を広げる記事を執筆します。

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