「生きる」「死ぬ」において「はたらく」を考える【後編】

(前編をお読みになりたい方は、こちら。)

 

本記事は、前編・後編に分けて、終戦70周年に因んだひとつの文庫本、『きけ わだつみのこえ — 日本戦没学生の手記』について、筆者自身の考察を一つのたたき台に、紹介している。主に、「はたらく」という4文字を初めて考える機会に出逢った後輩たちへ、届いて欲しいと思う。前編では、初めて本書に触れた当時(3年前)の、自身の考察を述べさせてもらった。

 

今回、記事の執筆にあたり、再度本書を手に取ってみた。最初に読んでから3年が経ったいま、最も印象強く私の目に飛び込んできた文章は、以前とは全く違った雰囲気のものだった。後編は、まずはそれらの文章をいくつか紹介することから始めたいと思う。

 

「死生観とは何かとか、とりたてて何もいう必要のない私達は幸福である。…私にはN中尉のように、大仰な言葉は吐けそうにない。彼の言々句々はすべて、一途なる愛国の至情にもえている。しかし私の冷厳な心は、それすらも静かなる反省の深みにおししずめようとしている。」(和田 稔・23歳 p.383)

 

「私は所謂、死生観は持っていませんでした。何となれば死生観そのものが、飽くまで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確な死を怖れる余り成す事だと考えたからです。」(上原 良司・22歳 p.375)

 

「…子、いとしい。本当に嘘偽りもない。隠し立てしたくもない。逢いたい。だが逢ったところで所詮無意味なのだ。人生正にくるし、はかなし。そしてそれをある程度つきぬけ、諦めた気持ちは空虚なるゆえ静かだ。実に静かだ。」(住吉胡之吉・24歳 p.421)

 

当時「死生観」といえば、『戦陣訓』にある「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。…従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」という一節を意味する場合が多いと想像する。死ぬことが怖いという、あまりに人間らしい心の動き方を忘れさせる、悠久の大義。死生観、任務の完遂、国のため…こうしたマジックワードの陰に追いやられた、人間の心。むなしい、はかない、と感じる心。国が提示する人生の意義と、自分が悟った人生のはかなさとのギャップの狭間で、人間本来の在るべき姿を問い、葛藤する姿。よく読めば、このような文章も非常に多かった。

 

そして私はいま、3年前に自分がした「はたらく」の解釈を疑っている。

死に終わる儚さに対し、それを覆い隠せるだけの大きな使命感や大義に身を委ねること。果たしてそれが、「生きる」ことであり「働く」ことであっていいのだろうか。「死ぬ」という事実に対する思考停止ともいえるのではないだろうか。まぁ、仮にそうだとしても、それが悪いことかどうかはわからないが。

 

生きると死ぬと、働く。それを考えるための、戦没学生の手記、『きけ わだつみのこえ』。

今回は二つの切り口で、抜粋させてもらった。読み手によって、様々な切り取り方が出来るであろう。非常に無責任な記事かもしれないが、働くとは何か、今の私には仮説すら立たない。ただ、「はたらく」に悩む、後輩たちに伝えたい。特に、考えれば考える程、よくわからなくなったり、どちらかというと希望を失う方へ傾く後輩たちに。

 

生きるということ、死ぬということ、働くということの、様々な側面を見るということ、特に、そのどうしようもない虚しさの側面にもし気付いてしまったとしたら、それは素晴らしい事だと思う。さらに、今の時代に生きる私達は、こうして手記にひっそりと残す以外に、むしろ公明正大に表現することができ、問いを投げかけることができ、議論することができる。就職を前に不安を抱えたり、時に希望を失う若者を、世の中は、哀れむような目で見るかもしれない。だが、どうしようもない絶望や虚無感にいま出逢うことが出来たとしたら、それは、ごく自然なことであり、ごく自然なことが自然に起こることのできる時代・環境に生きられているということは、やはり、素晴らしいことではないだろうか。

 

「はたらく」に悩む、後輩たちへ。

 

その悩みを、先輩や、同輩、家族に話すことを、是非、躊躇わないで欲しい。世の中や、人生にたくさんの矛盾があることは、生死を前にこれらの矛盾と闘い続けた先輩たちの手記を見ても、明らかである。彼等は、その矛盾に1人で対峙するしかなかった。だがいまの私達には、彼等が抱えていた程の制約は無いはずだ。なぜ、働くのか。働くとは、何か。その純粋な感性で出逢ったあらゆる側面を、ぜひ、私たちや世の中へ、教えて欲しい。

 

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参考・引用文献

『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』(日本戦没学生記念会 編、岩波文庫)

『なぜ、働くのか』(田坂広志、PHP文庫)

–Image picture by Moyan Brenn on Flicker

世羅侑未

世羅侑未【国際、教育】

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