【インタビュー】教会へ、不良女子高生が選んだ、牧師という生き方

日曜日の朝。京都から2時間かけて向かった先は、神戸市須磨区。

実は私の故郷だ。

京阪電車、阪急電車と乗り継ぎ、京都、大阪、と2県を超える。

緑の車体と、社内の微妙にうす黄色に暗い感じが懐かしさを感じながら、久しぶりに三宮で神戸市営地下鉄に乗る。

電車にゆられ、降りたのは「妙法寺」駅。

ここに、私が中高6年間通った教会があった。

駅を降り、坂を上る。15分ほど坂を上るとやっと見えてきた。

小さくノックをして入ると中から先生の声がする。

やっぱり先生は、久しぶりなのがまるで嘘のように、私に笑いかけた。

今日お話を伺うのは、神戸の小さな教会の、牧師さんだ。



*****

――お久しぶりです。今日は急にすいません。笑

いやいやいいよ~でもそんなちゃんとした話できるかわからへんよ。笑

*****

そうやって相変わらず本当に楽しそうに笑う先生。若々しくてきれいな女の牧師さんなのだが、何せトークが軽快なのだ。

初めて会った時に教会や牧師さんの“イメージ”を覆されたことを覚えている。

*****

ーーそういや聞いたことなかったんですけど、牧師になったきっかけってなんだったんですか?

話し出したら2時間、3時間なるよ~笑

 

ーーそうですよね、すいません笑

うちはキリスト教家庭ではないので、キリスト教主義学校で始めて聖書や讃美歌に出会うわけね。中学生の頃っていうのは、イエスっていう人物には興味があったの。だって、体制にあそこまで徹底して「あかんもんはあかん」って言って、その結果死んでいくっていう、こんなとんでもない人がおったんやと思って笑

でもその頃牧師になろうと思ってたわけではなかったなあ。

 

ーー私もキリスト教の学校に通ってたので、確かにそんな感じでしたね。

そこから何かさらにきっかけがあったんですか?

高校のころね、学校に行くのが非常に嫌だったことがあって。学校の寮に住んでいたので行きたくないといっても寮に住んでたらバれるわけなんよね。なんでこんな時間におんねんということになるから、しゃあないし行くんやけども、ある時どうしても行きたくないなって思って、でも寮におったら行けって言われるから、サボって街にいってたら見つかって笑

ほんで停学になってもて笑笑

 

ーーなかなかやんちゃですね。笑

あんまり処分されるようことをやる子がいるような学校じゃなかったから、基本的に無期停学しかなくて。反省の度合いによって処分解除しますって感じだったのよね。

そんな時期に、寮には舎監の先生っていうのがいるんやけど、ある晩用事があってその先生のとこまで行ったんよ。そしたらなんか部屋の中でぶつぶつ言うてんのが聞こえてきて。

その時は、またお祈りしよんでこの人どんだけお祈りすんねんとか思てたわけよ笑

 

でもね、それがよく聞いてたら、「神様どうか○○さん(自分の名前)を救ってください」だったの。

それを聞いて、私の知らんところで、私のことを祈られてるってとんでもないことやなと思ったね。

これがきっかけになってるとは思う。

 

ーー言葉が出ないですね。

そう。でもそのあともすんなり牧師になろうと思って、ってわけでもなかったけどね。

学校行きたくないと思ってたもんやから大学とかも行く気がなくってね、思春期の若者は「こんな親から早く自立して…」とか考えたりするやん。笑

私も早く自立して親から離れてうんたらみたいなことを考えてて、別に大学いきたくないなと思ってたんよね、けど、父に「何やったらやりたいんや」って言われて、「神学部なら」ってとっさに答えてたの。

だからその、なんだろ、やっぱり私が知らず祈られてることのインパクトは本当におっきかったよね。その先生通じて私は神様なるものに見守られているのかもしれない、って思ったから。

神学部やったらいってもええかもって言ったのも、後から考えたらなんでそんなこと言うたんやろと思ったけど。笑

今から考えれば、そこに向かえっていう何かがあったのかもしれないね。

で、とりあえずやるだけやってみようと。

 

ーー大学に入ってからは自然と??

大学入ってから行ってた教会がいろんなところに連れて行ってくれるとこで。そこでの経験からいろいろ考えたんよ。

そこの教会の牧師さんが、宗教は内向きな信仰だけで終わるものじゃなく、どうやって現実の中で人と一緒に生きて行けるかを考えて生きていけるかが大事だ考えている人やったので、そうやっていろんな所でいろんな人にかかわるようになって、今まで知らなかったいろんなことを知ったら自然とって感じやね。

ーー牧師になる、っていうのは信仰とはまた違うと思うんですが、牧師は職業ってとらえていますか?

お仕事はオフがあるけど、牧師にオフはなくて笑

24時間365日自分の意識から外れることはないよね。お仕事というよりも「生きるあり方」みたいな感じで思ってます。

とか言うとえらそうなんやけど、

自分の使い方がわからんので、使ってもらえるなら使ってくれたほうがありがてえ、そんな感じですね。

――もっと自分の欲望のために生きたいとおもったことは?

すごい生活がしんどい時はあと月1万でいいから欲しいわ~とか思うことはあるけど笑、出来るだけ魂を売らないほうがいいなあ。と思ってる。

 

――魂を売る、っていうのは?

あのね、身近でもよくあるんだけど、組織ってさ、トップの人が「こうです」って決めた時に、それが、「人としてどうですか」って思うようなことやったとしても、その決定に対して異論を言うと、自分が組織から去ることになりかねない、あるいは言っても決定は変わらないということを考えて、人って黙ったりするでしょ。出来るだけそういうことがなくていいところに身を置いていたいっていう気持ちはある。そういう外部のしがらみとかで、不本意に自分の中の意思を曲げるのって違うと思うから。

そうやって体裁や自分の利益のために魂を売るよりは、苦しいけど「あと1万円」とかっていって、魂を売らないほうが自分には合ってるかなって。

 

*****

言葉を選びながら、ゆっくりと、かみしめるように話す。

軽快な話運びの中に、彼女の強い想いのひとつひとつを感じる。

*****

 

――自分とか身の回りの人の不幸などがあったときって、神様を疑ったりはしませんか?

疑うことはないけど、神様何考えてはんねやとは思う。どういうつもりやと。

 

――それはずっと考え続ける?

でも結局意味っていうのは後からしかわからないことが圧倒的に多いので。その時は問うっていう作業が最大の作業なんでしょう。

 

 

――先生にとって神様はどういう存在ですか?

うーん。一言だと難しいね。

一緒に生きてくれる存在であり生きろって言ってくれる存在で、問いかけてくれる存在であり見守る存在でもある。

 

おたくの総長さん(京都大学の山極総長)が何年か前の新聞に芥川龍之介の桃太郎の話を書いてたのね。

芥川の桃太郎ってあの有名な桃太郎と全然設定が違っててね。

おじいさんとおばあさんが、桃太郎を旅に出さすのも、桃太郎がとんでもないやつやったから半ばやっかいばらいみたいにして桃太郎を鬼退治に出すの。

それで、お供の動物たちにも団子半分っていう低賃金で「鬼ヶ島にはタカラがあるぜ」っていう文句に目がくらんでいくのね。

一方、鬼は鬼ヶ島ですごく平和に暮らしてて、鬼のおばあちゃんは孫とかの世話をしながらね、「言いうこと聞かないと人間の島へやってしまうよ、人間っていうのは嘘はつくし盗みはするし強欲だし、本当に恐ろしいケダモノなんだよ」って言ってるの。

そこに桃太郎一行がやってきて、わけもわからず理由もわからず、鬼たちは殺されていくのね。

で、桃太郎に聞いても「日本一の桃太郎が、家来も出来たし、来た」みたいな感じで大した理由もなく一方的な理由しか話さない。

この桃太郎の話を山極さんが引用して、今の世界でも同じことが繰り返されていないか、って言うわけ。

最初にゴリラの話も書いていてね。西洋社会がアフリカを植民地化するとき、彼らは「ゴリラっていうのは邪悪な類人猿だから、そんなゴリラが多く生息するアフリカという暗黒世界を文明で光の世界にしてあげるんだ」という一方的な物語を利用した、と。

現代でも、アメリカがイラクに大量破壊兵器があるといったあれは何だったのか、とか。イスラエルとパレスチナもいまだにお互いがお互いを悪いって言い続けてる、とか。

そこには一方的な物語しかない。

大事なのは、相手の姿を通して自分を見ることだって。

 

この話からもわかるように、私たちは本来、一方的な物語を押し付けあうのではなく、共通の物語を共有したうえで、そこに出てくる違う登場人物として生きられるはずなのに、それが出来ていない。

だから、そんな世界に、神は共通の物語を提示して、それぞれがそこに「ある」のだということをわからせようとしてくれている存在っていうふうにも思ってる。

 

――そんな中で、宗教の「神」の名のもとでの戦争は常にありますが、それは神の意思でしょうか。

私が理解するキリスト教の中では、神は人間を自由意志があるものとして作ったと思ってる。

いうがままの操り人形ではなくて。だからそこで人間が応答するっていうのは、神の意思に合致するものもあればしないものもあるよね。

しないものまで、そこに神の意志があるっていうのは問いを放棄した責任転嫁だと思う。その答えは「神の応答存在としてどうなの」、っていう私たちが常に持っている問いの中にあるはずだから。

 

――でもそうした「戦争」とか「震災」とかそういう自分ではどうにもならなくて、そこに納得いく理由などみつかりそうにない理不尽な状況にあるときって、どうすれば生きていけるんだろうとよく思います。

そうしたどうしようもない時に「神」はどんな意味を持つのでしょうか。

ヴィクトール・フランクルが”私が人生に何を期待するかではなくて、人生が私に何を期待するか”だって書いてるよね。自分の意思とか願いとかではどうしようもない圧倒的なものがあるときに、圧倒的なものの中でそれでも生きていく、っていうのは私が何を見つけられるかとか期待できるかとかではなくて、「何を期待されているか」、ってことになるんだろうし、自然とそういう発想の転換に持っていかれるのかなって思うのよね。それで神とか何か絶対的なものを信じるようになるのかな。

希望を見つけようとするとき、人は希望がありそうだとか無さそうだとかっていろいろな可能性を論拠として並べてみて現実的に妥当かどうかで判断しようとするけど、それってただの予測だと思っていて、希望ではなくて。

希望っていうのはないと思うところにあるものだと思ってるのよね。

なんであると思うの?って言われても、希望はそういうものだと思ってるから、希望があるとするならば、ないと思うところにあるはずなんだ、というしかないんだけど。

だからって希望がないと思ってる人にそんなこと説こうとは思わないけどね。そりゃだってないって思う状況にいるんだからさ。ないって思ってるところに希望はあるんだっていうのをその人が知ることができるようにってやっぱり人知れず祈るしかないよね。

――生きる、ということと死ぬ、ということについてどう思いますか?

「ちゃんとひとりで生きること」と「関係存在として生きること」ですね。これは矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、私は「ちゃんとひとりで生きること」が出来ないと、人は関係存在として生きることができないと思っているので。

それを意識したうえで、右往左往してそれを試み続けるのが生きること。

死ぬっていうのは、とりあえずのその右往左往っていうのが終わって、神様に「おつかれ~」って言われるっていう。そういう感じ。笑

――笑。じゃあ、死ぬのがこわいっていう感覚はないですか?

あのね、そういえば、結局精密検査を受けたら悪性じゃなかったんだけど、検査を受けたらすごく大きい腫瘍がみつかったことがあって。その時に、「こんなにでかくて悪性なら間に合わないかもな、死ぬのかな」と初めて思った。そこで出てきた感情は、恐怖感ではなくて、「あーだったら残りの時間どうするか考えないかんな」っていうそういう感情だったね。

 

――どうするか考えなきゃ、っていうのは?

死ぬ準備せないかんあな、と思って。そういや私は死ぬ準備って考えたことなかったな、って。日常から死ぬ準備ってちゃんと入れとかなあかんな、って思ったね。

死ぬ準備っていうのは、「明日世界が終わるならあなたはどう生きますか」

っていう質問よくあるじゃない。その時に、「いつもと一緒でいいです」って言えるように生きていくことかな。

 

――「ちゃんとひとりで生きる」って難しいですね。

理解してもらえなくていいって諦める必要はないけど、どうやったって人がわかってはくれないものはあるじゃない。それをすごく持て余すことってあるんだけど、そこを持て余しすぎないでちゃんと付き合えるっていうのかな。わかってもらう努力もしつつ、ある程度わかってもらえないことも理解して付き合うってことだよね。

――私は相手のことを理解したいと思いすぎて、よく「詰められてる」って思われるんですけど笑

他者の他者性をわきまえるというか、私が踏み込まれてならないように、他人にも踏み込まないことは大事よね。分かろうとすることと踏み込もうとすることは似てるんだけどちょっと違うな、と思うからね。

 

*****

他人を感じることによって自分を感じる。他人と自分を共通の文脈の中に理解しようとする。

そして、その中で、他者の他者性を理解する。

私が、自分のエゴではなく他人を「わかろう」とすることができるのにはまだ時間がかかりそうだ。

*****

 

――クリスマスはどういう日ですか?

私は12月をクリスマス強化月間と呼んでるんですよ笑

まあひとつにはすごく行事が多くて忙しいというのもあるのですが、そういうことだけではなく、クリスマスっていう出来事の意味を考えてみると、それって、神が人の世界に関わろうとして、やけれども人がその想いに十分こたえられていない、っていうときにもっと深く介入しようということでイエスキリストの存在が人の世に表れた、ってことで。

このことを考えると、その神の意思はいつだってこの世界に及んでいて、この日だけではなく年がら年中クリスマスだろう、って思うんです。

まあ、たくさん話の用意とかしなあかんし忙しいから、街のクリスマスが時期的に早くて追い詰められてる気分にもなるけどね。笑

 

――最後に、幸せってなんでしょうか。

これってありがたいことやな、感謝やな、って思えることかな。

そのことのただなかっていうよりは、後から「ああ、あの時」って思えることですね。あとはごはん食べてるときやね笑

 

*****

そういうと彼女はやっぱり、豪快に笑った。なんとも楽しそうに。

こんな話の後なのに、こんなに素敵な話が出来るのに、心から気取らない。

そんな彼女の性格が表れたこの笑いが、何年たっても、大好きだった。

*****

いつだって、そうだった。

中学生の時も、高校生の時も、浪人生の時も、しんどいとき、楽しい時、ここにきて、神様がいるのかとかわからなかったけど、祈っていた。

災害が起きた時も、おばあちゃんが病気の時も、いつも。

今もそれは同じだった。

その教会にはいつも、誰かのために祈る人がいた。

そして、誰より楽しそうに笑いながら、人のために祈る先生がいた。

だから私も難しいことは考えなかった。

楽しそうに笑うその人に、謙虚で若くて面白いその人につられて、ケラケラ笑って、オルガンに乗せて思いっきり歌って、そして祈った。

礼拝のあとはお菓子を囲んでペラペラしゃべって、笑って、泣いて、でも最後にはいつも笑って、帰った。

そこには「宗教」なんて小難しい単語はなかった。

ただ、「祈り」だけがあった。

そしてその場が、心地よかった。

 

*****

そのあと参加した礼拝で、先生はこう言った。

「「1年中クリスマスだったらいいのに」それは可能だと思います。」

この言葉は「Alley My Love」という海外ドラマのある話に出てくるものだ。

そこでは、私はサンタだと自称する男性が出てくる。その男性が、自分をサンタだと名乗る理由。

Well, on whether you’re willing to consider the needs of children. Or whether you’re willing to remember the weakness and loneliness of people who are growing old. Or whether you’re willing to stop asking yourself how much your friends love you, and ask whether you love them enough. Then, you may keep Christmas everyday.

つまり、あなたが子供たちの要望に答える気があるかどうか、老いていく人間の弱さや孤独を思いやる用意があなたにあるかどうか。
友人に好かれているかどうかを気にするのではなく、自分からもっと好意を示そうと思っているかどうか。思っているならクリスマスだ、毎日がね。

*****

今日は25日。クリスマス。

あなたの1年は、クリスマスでしたか。

クリスマスが、今日だけじゃなくて、1年中だったらいいのにな。

きっと、それは妄想なんかじゃない。

*****


最後になりましたが、インタビューに協力してくださった、先生、本当にありがとうございました!

 

※今回の話は、キリスト教を代表する意見ではなく、あくまで個人的な意見です。

 

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SeiZeeでは、以前ほかの宗教を信じる方々にも話を聞いています。
ぜひお読みください!

seizee編集部

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当メディア『SeiZee』の編集部です。
「読んだらちょっと、考えちゃう」をテーマに記事発信しています。

昨年末から、モスク、競馬場などへのインタビューに力を入れています。

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