「宗教とは何か」「そこで神とは何か」ということを、逃げずに現実的に考えてみる【回答あり】

 

SeiZeeは最近「宗教」に注目している模様です。メディアとしての思春期でしょうか。確かに、人間理性が発揮される言語空間を謳うのであれば、完全理性または全知全能である「神」に思い悩むのは自然と言えましょう。思春期サバイバー(22・男性)としては、終わらせ方が大事となる思春期を、締めるお手伝いをしてあげられればと思います。可能な限りの一助を。

 

 

私にとって可能な限りとは、ここで「パレスチナという諸宗教の聖地で、諸教徒の日常を垣間見た者として可能な限り」と捉えてください。諸宗教とは、キリスト教/ユダヤ教/イスラム教を指しています。また、その一旦の締め方というのも、「宗教とは何か」「そこで神とは何か」という2つの問に対して、暫定的に正しいと思われる程度の回答を提供する形となります。何気なく「宗教」「神」という別々の言葉を使いましたが、太字部分に表れているように、私は、神とは宗教が要請した存在だと理解しています。さておき進みます。

 

 

まず、核心に触れる前に、「宗教の目的とは何か」という補題と向き合いたいと思います。ということで、私はここで所謂、目的論的なアプローチを採ることになったようです。簡単に言えば、「なんのために」から「なんなのか」を追求する手順を採るということです。今回の場合、教徒は何を求めて宗教を実践しているのか、という問から出発し、「宗教とは何か」を明らかにすることにしました。

 

まあ、始原の地パレスチナでそれぞれ数日間泊めさせてもらった人間にはそう写った、というレベルのことですし、その諸宗教というのもキリスト教/ユダヤ教/イスラム教の3つに過ぎませんが、その範囲での私の見解として、宗教の目的とは以下のようになります。

 

神への応答存在として自己を規定し、その上に築かれた良識の体系に沿って安静に暮らすこと

 

神に授けられた良識に沿って、要請される通りに、隣人とともに、傷つき傷つけることなく、負債に塗れることなく、危ないことはせず、過不足なく、世代を超え、無事に生きる。無理に言葉を費やしてみても、この程度のことだと思います。注意して欲しい事といっても、一点くらいしかないです。というのも、

 

ここで良識とは、善悪に関する常識のみを意味しているわけではなく、より生活の実践に根付いた、例えば「安全な豚肉生産加工技術が無いので豚肉は食べてはいけません」くらいのものも含む、健康と安全、ひいては生命の平穏に資するような知識を指す。

 

ということです。私の目に写った宗教の目的とはこのようなものでした。補足として、これを達成しようとそれぞれ実践する中で、皆さん、不変で安静な生活を送っているようでした。そこに、現代っ子らしい可能性や潜在性は見当たりません。孫と祖父の人生に違いは出ないのかもしれません。蜜が流れ、地震のない土地に、石と漆喰で出来た不到の家が立ち、そこで親と子の安静が繰り返される訳です。まあ極論ですがね。実際のところ今の孫はスマホを持っています。

 

 

本論に戻りますが、「宗教とは何か」という第一の問いに対し、一応の回答は出たのではないでしょうか。宗教の目的から最小限の引用で導くのなら、それは、良識の体系です。では、その良識の体系が、新約聖書、旧約聖書、クルアーンに収められているとすれば、「宗教とは経典なのか?その書物を宗教と呼ぶのか?随分マテリアルだな!」という点に引っかかる方も居るかと思います。しかしまあ、そのような食い違いは言葉の綾、要するにテクニカルなものに過ぎないので、もう少し肉のある宗教観を望むのであれば、目的の観念を包含したものをそうと呼んでいただいても構いません。

 

つまり、「神への応答存在として自己を規定し、その上に築かれた良識の体系に沿って安静に暮らすこと」を宗教と言ってみるとか。ただこれは、繰り返しになりますが、言葉を整理するための枠組みが違うだけで、大事なところ、解釈しようと見ているもの、その捉え方は同じです。私たちの頭の中の枠組みに関係なく、私たちがパレスチナで目にするのは、安静な生を甘受しようと生きる教徒の日常で、なんにせよそこがコアであるという認識は一致しているでしょう。なのでひとまずは、宗教の目的も実体も、私の言う通りの様であると仮定して次に進みます。

 

 

それでは次に「そこで神とは何か」という問に、テンポよく回答を与えてみます。私の答えとしては、「とある知識体系を良識とする根拠」です。宗教とは良識の体系であると言いましたが、その知識体系が良識として説得力を持つには、神なる全知全能のお墨付きがなくてはいけなかったから、神を設置したのだ、と言っています。これは、「家庭の医学的なウェブメディアを監督する医療従事者」レベルで神を捉えることを意味していますから、各方面から批判非難が来そうなものですが、3宗教上の神とは、そのような必要性に導かれた被造物だと、私はそう判断します。説得力を担保する上でも、それ自体普及していくためにも、教徒が疑いを挟むことなく実践に集中するためにも、村長でなく神から教授されたというストーリーが必要だったと判断しています。

 

では、「とある知識体系を良識とする根拠」であるということが、神の一側面ではなく全貌なのだと言う、以上のことを支持する論拠は何かと聞かれれば、正直に言いますと、確固たるものが見当たる訳ではないのです。私には、「光あれ」と、昼と夜を分けた者の不存在を証明することが出来ません。神の不存在証明は誰にも出来ないのです。ですから、「そこで神とは最低限、何であるか」という問に対して現実的に答えたものが「とある知識体系を良識とする根拠」であると言うのが、本来の正しい形だったかもしれません。よって、冒頭の勢いを殺してしまうことになりますが、問を上記のように訂正し、回答も以下のようにさせていただきます。

 

宗教とは良識の体系であり、そこで神とは最低限、「とある知識体系を良識とする根拠」として存在している

 

これは一瞬の余談ですが、仏教圏の人というかアジアの人は、創造主でなく、自然の秩序そのものをカミサマとする傾向がありますよね。私自身の神のイメージはそっちに近いです。また、世界の創造に関しては「偶然だった」レベルで構わないタイプでもあります。たまにですが、その偶然性に向き合った時に感じたものが、混沌だったのか刹那だったのかという点が、所謂西洋と東洋の分かれ目だったのかもと思ったりします。その混沌、不安を埋めるために人が創り出した必然が創造主であり、全知全能の唯一神であったのではないかと思ったりするのです。和歌は、世の移り変わりを謳うのみです。そこに映るカミサマも、創り手としでなく、自然の秩序そのものや、その代弁者として現れます。ちなみに仏陀は実在する人間でした。彼は何なのでしょうか。

 

 

記事の本論としては以上で終わりですが、そもそも「宗教ってなに?」と思い始めた理由は、世界が「宗教!宗教!」五月蝿かったことにあります。特にキリスト教/ユダヤ教/イスラム教。あれも宗教これも宗教。どれが宗教なにが宗教。キリスト教のせいだ。いやいやイスラム教のせいだよ。ユダヤ教はイエスを殺した。もうユダヤ教とか権益。なんなら宗教は金で権力で、人を殺す一方で救済もする。十字軍てなんだよ。ジハードは何さ。キリスト教右派がトランプを勝たせたとね。なんなん左派はヒラリーなん。敬虔なユダヤ教徒は従来民主党支持なのですか。可愛いあの子はミッション系の大学に通っているんですか。こんがらがるなマジで。あれもこれも宗教すぎるし、宗教があれもこれもし過ぎていて、もう宗教ってなんなのと、長年長年本当にうざいのです。

 

 

なので、「キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒の日常を/聖地パレスチナで垣間見た人間が/目的論的なアプローチに立脚した場合の/宗教観」という、非常に限定的な論でしたが、ひとまずの私的宗教観は落ち着きました。以下は纏めです。

 

原初的な宗教の目的とは「神への応答存在として自己を規定し、その上に築かれた良識の体系に沿って安静に暮らすこと」であり、ここで宗教とは「良識の体系」と言えること。そして、宗教の発生及び普及過程において、神とは最低限、「とある知識体系を良識とする根拠」として存在していたこと。

また、イエルサレムを聖地とした3つの宗教は、多くの土地で原初の姿を離れ、一貫した倫理体系と不変の生活を手放し、恣意的に変幻流転しているということ。そうであるならば、宗教という呼称は現在の世界において、それによって何も示していないということ。

 

 

ーーー

 

 

余談その2になりますが、これは仏教について。かなりラフです。

 

 

やはり仏教は上記3宗教とは異質で、構造的な違いを持っていると判断しています。3宗教においては目的であった、「神への応答存在として自己を規定し、その上に築かれた良識の体系に沿って安静に暮らすこと」は、仏教において、その形と位置づけが変わってくると思うのです。

つまり、仏教においては恐らく、「宇宙への微細なる応答存在として自己を規定し、その上に築かれた良識の体系に沿って中庸に生きること」は教徒すなわち修行僧としての前提条件であり、その修行の目的こそが、梵我一如、すなわち宇宙と同化することであると思われます。また、良識とは、一生物として、自然の循環のままに生きるための観念や認識を意味しているのかもしれません。

ここで、宇宙とは何で、どのように同化するのかを問われれば、分からないと答える他ありません。宇宙の理を知り同化することが解脱というのであれば、解脱の有り様は、解脱した者にしか分かりません。

 

 

また、仏教は他宗教と違い「科学的である」と言われることがありますが、これは例えば、生命の進化の系譜を知ることや、物理法則を知ることなどが、宇宙システムを前にした人間の存在及び行為主体としての微細さを知る助けになるため、特に自然科学を収めることは解脱の道に叶うという意味合いなのではないでしょうか。つまり、そもそも(特に自然)科学が仏教的であるとも言えます。

(ただ、西洋で近代科学が発達した理由として、「宇宙の設計図を明らかにすることによって創造主との繋がりを得るという、キリスト教徒的な熱狂があったからだ」とも言われています。そのような精神土壌を持ち、不確実性を排した完全なる設計図を求めた近代科学が、最終的には諸行無常の観念と結ばれていくとは、一体どういう事態なのでしょうか。宇宙の完全なる循環を感知する内に、人間を含む全物質の不確実性と微細が明らかになってしまった、という意識構造なのでしょうか。なんにせよダイナミック過ぎますね。まずはそれぞれの専攻を頑張りましょう。)

 

 

加えて、日本人はやはり仏教的であると思いますが(思わなかったらごめん)、これは、仏教が古くに伝播したという史実のみによってでなく、日本人の精神性がそもそも仏教的であった、言い換えれば、日本人は修行僧のような自然観(死生観、人間観、宇宙観、人生観)を所与として持つ民族であったからではないでしょうか。つまり、地震に代表される天変地異、地理的に許された四季といったものの中に生きる我々は、万物は流転することと、人は万物の内に過ぎないことを無意識に受け入れ、微細なる存在として生まれているのではないでしょうか。

 

ですから我々は、西洋科学が伝播する前から、ずっと仏教的であったのではないかと言っています。そんでやっぱ仏教は異質です。少なくとも、3宗教と比して。

 

芦澤良太

芦澤良太

投稿者の過去記事

京都大学法学部の4回生で、2017年の夏までイスラエルに派遣留学中。もちろんSeiZeeによる派遣ではなく学部によるもの。場所が場所だけに、政治と宗教に関するアンテナは強制アクメ状態であるものの、経済も含め幅広く書いていきたい(書けるものなら)。

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