参院選が終わり、へんに希望的にも絶望的にもならず、再認識しておいてほしいこと

 

 

本記事は、選挙の結果と私たちの生活について、投票の直後の今だからこそ、考えをはせていただきたく思い、編集部によって執筆されたものです。また、本記事では、各党各派の主義主張に対する評価は行っておりません。

 

以下、

情報との付き合い方について再確認してほしいこと、

正しい付き合い方の先で「熟議デモクラシー」へ移行する段階にあること、

その「熟議デモクラシー」とはなにかということ、

本論として、私たちが今日から見ていかなくてはならないものに、焦点を当てています。

 

若い世代からなる全国の政治活動団体が、次なるステージへと行動の指針を進めようとしているなかで、彼らが存在する意義を噛みしめるためにも、少し長めの本記事を読んでいただければ幸いです。

 

情報との付き合い方で再確認すること

 

ここ数年のことなのでしょうか。マスコミの報道姿勢を糾弾する人や、公的な報道機関からの情報を軽視するような人が、恐らく、安全地帯としてのインターネット空間を中心に、増えてきたように感じられます。

 

 

「報道と中立」や「報道の自由度」といったテーマへの注目が過熱するなかで、確かに、国際ジャーナリスト組織による2016年の調査では、日本の報道の自由度が全体の72位という低い位置にあるとされ、このことは大きな反響を呼びました。

このデータの信用度と正当性については度々議論になっています。しかし、このランキングを抜きにしたとしても、大衆からの批判や、公的機関、スポンサーなどの目を恐れて、私たちの国のジャーナリズムが硬直してきていることは、日常において少なからず感じられることでしょう。

そうして、報道を受け取る民衆の側が、マスコミの硬直的な報道を真に受けて加熱してしまったり、逆に、その硬直性を大々的に捉え挙げて、盛大なマスコミ批判へ繋げたりしてしまっているという事例が、ここ数年で幾つもありました。

東京都知事に関する一件でも、マスコミの報道を盾として加熱していく姿と、その反動として、マスコミに対して急速に冷え込んでいく姿の双方を見て取った方が多いのではないでしょうか。

 

 

また、政党姿勢に絡んだ報道がされるとなると、政権寄りであるとか反体制的であるといった議論が過熱し、時にはマスコミに対する報道統制を求めるような言説が盛り上がることさえあります。そうして、一部の人がそうなる一方、一部の人は、反動としての非難や沈黙に向かいます。

 

過熱、反動的過熱、または冷え込み、そして沈黙。

 

人間と情報の付き合い方というのは、どんなテクノロジーが媒体となろうと、ずっと変わってこなかったのかもしれませんし、そうであれば私たちは、情報の性質のままに思考を振り回される運命にあるのかもしれません。

ただ、そうであったとしても、今ここで明らかにしたい理想論があります。

メディアは裁判官ではありませんし、特に、ニュースは判決文ではありません。そういった情報を真に受けて断罪、腑に落ちないから上告というのも間違いです。そもそも私たちは、着席を義務付けられた陪審員ではありません。そうではなく、全ての情報は自分自身で考えるための材料であり、提供された一つの切り口でしかないのです。

なにより私たちは、自由な「熟議」へ移行すべき時期にあるのではないでしょうか。

裁判所的なメディア観を捨てて。

 

「熟議デモクラシー」、新しくはないけど難しいもの

 

「単なる民主主義では何処にもたどり着けないのではないだろうか?」

民主主義とは何かが話題になる時期があったからこそ、今、そんな疑問を抱いている人が多いのかもしれません。だからこそ、「熟議デモクラシー」という、新しくはないけど難しいモノを、今ここに掲げなおすことを許していただきたいと思います。

 

 

まず、諸説ありますが、「熟議デモクラシー」が成立するのは、個々の構成員が以下の事柄を満たしている場合とされています。

 

その一、理論的に自分の主張を理解していて、誰かにそれを伝えられること

その一、誰かの理論的な主張を、しっかりと聞く姿勢を持つこと

 

つまり、これによると「熟議デモクラシー」とは、

理論的に自分の主張を理解していて、
誰かにそれを伝えることができて、
他の誰かが同じようにしている主張を、
しっかりと聞く耳を持った人々による話し合い、

によって実現する民主主義を意味しています。そして、この「熟議デモクラシー」を可能とする構成員になるために一人一人が意識していかなくてはならないこと―本来はそれこそ山のようにあるのでしょうが―を、本記事では以下の2点に集約しました。

 

まず、感情を論理的に育むこと。

あなたの感情が大事です。それなくしては、国以前に、あなたの生き方から色彩が失われます。ですから、感情を排除して論理的に語ることを目指さないでください。そうではなく、あなたの感覚が捉え、あなたの感情に想起されたものに、「それはどうして?」、という問いを与えてあげてください。そうして、自分がどうしてそう感じたのかについて、常に明らかであってください。その作業は地道ですし、感情を言葉で噛み砕いていくためには、豊富で正しい知識が必要になるでしょう。これは、誰からも視認されない、内省的な作業です。しかし、その問いを尽くした分だけ、あなたの感情は論理的に明快なものとなり、その分だけ、あなたは周囲から理解されます。なにより私たちは、理解の輪のなかにいなくてはなりません。

 

そして、誰かの意見を、その文脈の中で捉え直してあげること。

本当に伝えたいことというのは、一つの発言から明らかになるものではありません。彼彼女の意図や信念に基づいた、その個別の主張に流れる真意を受け取るためには、まずは文脈を尊重してあげることが必要になります。これもまた、地道な作業となるでしょう。見出しやタイトルではなく、ましてや個別の本文でもなく、彼彼女が今まで言ってきたことの流れの全てを汲むことなのですから、相当の時間と労力がかかります。そもそも、これを毎回こなしていくのは不可能です。ですが、真意とは、それくらいの時間と思考を費やさなければ見えてこないものだということを、なんとなく覚えておけば、一つの意見を前に余裕ある姿勢を取れるのでないでしょうか。それと、参照するメディアが情報源としてそもそも信頼できるものかということも、忘れちゃダメですね。

参院選、「熟議デモクラシー」は起きたか

 

 

今回の選挙で私たちは「熟議」していたかなんて、すぐに分かるものではありません。選挙の結果は議席数ではありませんから。そして、今夏の参院選の結果を受けて、じっくり考えていかなければならないことが、確かにあります。それが、議席数が可能とした内政と外交の指針によって、私たちの生活がどのように少しづつ変わっていくのか、ということです。また、かつての投票の意味を理解して次に生かしていくことも、市民としての発展には肝要となるでしょう。

 

 

選挙のあとに、確かに、少しずつ変わっていく生活。

あなたと私の一票の意味は、最終的にはそこにあるのだと思います。

そして今、恐らく、私たちは岐路に居ます。

これは、各党各派への評価による判断では決してありません。

そうではなく、その理念がどう実現されるべきか、長らく曖昧なままであった、

私たちの民主主義そのものに対して判断されたことです。

 

これから、「熟議」を目指した市民団体が、立ち上がっていくことでしょう。

その時には、あなたの中で論理的に育まれた感情を、彼らに聞かせてあげてください。

そして、彼らが育んだものを、しっかりと聞く姿勢を持ってください。

だいたいの人が、よりよい社会を望んでいます。

 

皆さんを代表し、「熟議」の先、それが叶うことを願います。

 

 

芦澤良太

芦澤良太

投稿者の過去記事

京都大学法学部の4回生で、2017年の夏までイスラエルに派遣留学中。もちろんSeiZeeによる派遣ではなく学部によるもの。場所が場所だけに、政治と宗教に関するアンテナは強制アクメ状態であるものの、経済も含め幅広く書いていきたい(書けるものなら)。

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