ナショナリズムの現在地

トランプや安倍総理の言動や移民問題、ヘイトスピーチに沖縄の基地問題、今では森友学園の話題など、現在の様々な国内的国際的問題はそれを取り巻く「ナショナリズム」という概念を捉えずには語ることはできないであろう。

 

ナショナリズムという言葉には多くの意味合いが含まれ、その定義についても多くの議論があるが、この記事では、手元の辞典にある「外圧を排して、自国または自国の民族の独立・発展を推し進めようとする思想や運動」という表現を軸にしながら、思考を通してその意味合いの範囲を考えていきたい。

日本における昨今の政治的テーマの中でよく使われる「愛国心」という単語を使うか使わないかは別としても、我々民衆がどういった政治方針を支持しどういう反応をするか、そしてそういった反応の上で政治家がどういった言動をとっているかといったものには多分に「ナショナリズム」というテーマとの関わりが見て取れる。そして、現代においては、実質的な利害関係の問題と同じかそれ以上に留意されるべきテーマであるようにさえ思う。

 

この記事では、順を追ってその要素を見ていきたい。

 

政治のダイナミズムを担うのは

政治に一定程度関心がある層とそうでない層を考えた時、何かあった時にまず動くのは政治に関心がある層である。この点については、少し考えてみれば分かる。政治や行政での決定に際しての一次情報をすぐに得て理解できるのは政治に関心のある層であろう。

そして、そうした人々に流され、動くまでの時間が長い側なのはテレビや新聞、インターネットのいずれでも政治に関するニュースにほぼ触れないタイプの人達だろう。一般に、そうした政治にあまり関心がない層が政治に関係するアクターとなるのは事態としては相当あとの方である。まずは政治家や行政などの決定があり、そこについて関連分野の人間やマスコミが反応して、その後で「マスコミ=政治家・行政=政治に関心のある層」の三者の間でのやり取りが交わされていくことになる。

そうしたやり取りを経て当該問題が「社会的な問題」として大ごとになるかどうか決まる、というプロセスがある(ように見受けられるというだけの、冗談交じりの意見として受け取って欲しい)。

つまり、「政治に関心がある層」と「政治に関心がない層」という分類をした場合、主に政治を左右するのは一般に「大衆」と言われる人々の中でも特に「政治に関心がある層」である

こうした層は今の時代においては、欲しい情報を得られるというインターネットの発達によって大衆化し、各種SNSやニュースサイト、掲示板などへのコメントなどに視覚化されたことでより目立つようになってきていると言えるが、ネットに疎い世代や、そうでなくても普段意識高く政治に関わる活動をしている人ほど、ネットの声というものを過小評価しているように思われる。既存マスコミもネットニュースを広く配信し、ネット戦略がジャンルを問わず重要項目となっている今、インターネットが導く世界はもはや大前提としてその根を広げているのである。

 

「ナショナリズム論」の重要性

例えば、かつてハンナ・アレントやベネディクト・アンダーソン、アントニー・スミスのような学者がそうしたナショナリズムに関わるテーマについて鋭い大衆社会の分析を行っているが、現代の世界においては「発達した情報通信機器」「同時的な情報のネットワーク」といった事柄が大前提として存在する。
これは、人々の考えを規定する「情報」というものがいかにして作られ消費されるかという点においてのある種革命的な事象であるし、こうした事柄をまとめた概念としての「インターネットの大衆化」は簡単に捉えきることができないテーマである。例えばツイッターなどSNSの急速な普及とその影響、既存メディアとの関係や各種ハードウェアの進化など、インターネットと社会を取り巻く潮流は今も大きくうねり続けている。そうした前提を欠いた状態でナショナリズムを論じようとすれば、左か右かのどちらかに偏った単なるイデオロギー的主張となるか、逆に抽象的に過ぎる空論になるか、データの収集が足りないゆえの表面をなぞるだけのような意見になるか、そうした道しか残されていないように思われる。もはやインターネットにアクセスするスマートフォンやパソコンなどのデバイスは、道具としての枠を超えてそれを使う人間の思考や行動の前提となっていると言って過言ではないのだ。

 

インターネットにおける評価の基準

では、そうした現代のインターネットの世界で重視されたり、評価されたりする事柄の基準はどんなものなのか。
これは、大きく分けて「論理的かどうか」と「愛国的であるかどうか」の2つである。昨今の政治情勢や各種の社会運動などにおいては、論理というよりも言葉尻を捉えた争いであったり、まず行動に移したりという局面が多く見られることから、そうした「論理的でない」ものは右派左派のものを問わず議論を呼ぶことが多い。
そして、もっとも重要なのが後者の「愛国的であるか」というテーマである。政治的コンテンツに興味を持つネットユーザーの多くは現在の思想的な保守主義及び政治での「親米保守」という枠組みを支持する傾向があり、思想的基盤こそないものの革新的な意見や反米保守などの意見が一定程度以上の影響力を持つことは多くない。
そして、この2つの要素は複合される。つまり、「愛国的でない」ものについては厳しいチェックの目が向けられ、その問題点についての議論が活発化し、「論理的でない且つ愛国的でない」ものは徹底して嫌われる傾向にある。逆にネット社会においてヘイトスピーチを擁護する意見が多いのも、彼らがそれをするに至った心情なり論理(理由)なり愛国心なりに共感しているからであろう。とは言え、例えば東京五輪の開催についての議論など、ネット右翼と呼ばれるような層であっても意見が大きく割れることは発生する。そうした場合でも双方のロジックにあるのは「愛国的かどうか」であって、ここを踏まえた議論でなければ説得力を欠いたものとなってしまうような空気がある。

記事にコメントを投稿する機能があり、利用者も多いヤフーニュース

そして、もちろんそれに対抗する立場を取るユーザーも多いが、その2つの勢力が議論できる場が少ないために歩み寄る機会もない。そして、そういう状況にあっては得てしてネット右翼のような思想のユーザーに対抗する立場の人は「愛国的かどうか」という基準を理解できていない。

 

ナショナリズム論を考えるということ

こうして見てきたように、ネットに於ける意見の「正義」には、様々なファクターの中心として愛国心というテーマが存在している。その「愛国心」を定義しどういう心情であるかを研究するのがナショナリズム論であろうと思うし、だからこそ流動し複雑化しているインターネット時代である現代に見合った「新たなナショナリズム論」が必要とされている。そして、それはすなわち「この社会のあり方を理解する」ということと同義であろう。

現代の人々は「ナショナリズム論」に飢えていると言って過言ではない。ナショナリズムという言葉に含まれる右寄りの空気感を嫌ってそれを否定する人であっても、その危険性や定義を言葉に直せることのできる人は多くないだろう。つまりそこにあるのは漠然とした危険に対する直感的な不安であって、誰かがそれについての理論的な意見を加えたならば、それが自分の意見のバックボーンとなるかどうかの吟味は好んで行われる可能性が高いと考える。そうした視点に立ち、あらゆる反論に耐えうる「ナショナリズムの真理」を追究することができたなら、その動きはこの今、あるいは世界にまで雪だるま式に大きな影響力をつけていくことになるだろう。

そうして、その結果としてもし一つに理論立てたナショナリズム論が今の世界に出現すれば、かつてのマルクス主義のように歴史に名が残るほどの転換点となるのではないかという気がしている。

 

どこを見れば良いのか

そして、それは決して不可能なことではない。ネット上の過激なコメント、染み付いてしまった嫌韓嫌中の空気、既存野党への不信感、マスコミ批判といった要素への根底は繋がっているし、そうした動きへの中道・「左寄り」からのカウンター的行動、それに対する再反論やその手法と目的、そういったものの一つ一つは非常に興味深いものであって、それぞれを取るに足らないと断じることなどできない。マスコミ批判が生まれる理由の一つは「民意」を捉えていないという意見なのだ。彼ら(以下、「彼ら」はネット上で政治的な話題に反応するようなユーザーの集合体)がどういう論理、どういう感情に則って発言しているのかは、決して一つの視点からでは見えてくるものではなく、例えば右寄りと言われるものから左寄りと言われるものまでその言わんとするところを理解し、「彼らとどういう議論ができるか」をシミュレートすることなどが必要になろう。彼らの立場に立ってその理論構成を考え、彼らがするであろう反論を予想できなければ、その意見には反論の余地を残すことになる。それは決して彼らの意見や声を支持するというわけではない。彼らがどういう思考で動いているのかを見ようとしない限り、今後も「民意」を捉えることはできないだろう。そして、このネット空間においてもっとも重要なテーマが「愛国心」であり「ナショナリズム」であるのだ。現代におけるナショナリズムを一定程度捉えようとすることが、まず彼らの議論を理解する1ステップになる。

ネット空間にあふれる言説は、それぞれの意見表明に対する多様な反論が視覚化されるという点において、本来なら自分の意見を磨くには最高の場であるのだ。著名な学者であったとしても、こうした複雑な関係性に対する理解がしっかりとできている人、ましてそこへの正しい道筋を示せている人でなければ、決してネットユーザーを左右問わず束ねるような影響を起こすことはできない。そして、そうした「反論に先回りする=完全な論の組み立て」をできている人には今のところ(寡聞にして)出会ったことがない。

 

自分の見方が

私達それぞれが「自分なりのナショナリズム論」を考えてみるのもいいだろう。それぞれの見方を戦わせることで見えてくる答えもあるし、それが考えの成長を促すことになる。愛国心やナショナリズムに至る論理や感情をたどっていくことで見いだせるものを、さらに注意深く見つめることによって理論に束ねていくというのが、ナショナリズム論の組み立て方となる。別に政治に興味がない人なら無理をしなくてもいいが、ある程度関心のある人なら「私はこう思っている」ということを再確認し言語化しておいたほうが、後々役立つのではないだろうか。

私は多様な人々による多様な「ナショナリズム論」を待望しているし、自分もその追究の一助になれたら、あるいは自らの行動によってその一歩を踏み出せたらと考えている。

 

 

抽象的な話が多くなってしまい恐縮だが、私がこの記事でしたかったのはただの意見表明ではなく、思考に対する前向きな呼びかけである。もし1人でもこの記事に動かされる人がいれば、それほど嬉しいことはない。

poncirus

投稿者の過去記事

京都大学法学部在籍。特定の思想を啓蒙するとかではなく、分野をまたいだ色々な見方で物事を捉えられるようにと思っています。

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