熊本の今とこれから−そしてもともと

 

4月14日に前震、4月16日に本震による「熊本大震災」が大きな傷を刻んだ熊本に新幹線で入った。駅に降り立つと、くまモンがお出迎え。この熊本駅は整っていて、すでに交通の要衝として機能していた。

 

 

そして、熊本を歩き出すと、そこにはありありと「痕跡」が見て取れる。見ていて感じたのは「あの時の、東日本大震災とは明らかに違う」ことだった。私が東日本大震災の時に気仙沼や南三陸に入った時は、津波のせいでそこにモノがなかった。建物が建っていたかは、その基礎の有無でやっとのこと分かる状況であったが、熊本は違う。その被害がそのまま分かる。

熊本の街の中で

 

 

東日本大震災の時、罹災地の事を「時が止まった街」と日記に書いていた。

 

 

益城町も「時が止まっ」ていた。それは4月14日、9時26分。震度7・マグニチュード6.5の揺れがあったその時だ。熊本の人によると、震災の数日間「鳥を見かけなかった」。「不気味な静けさがあった」そうだ。そして、余震が始まった。この余震には2種類あるようで、「ドンッ! 」と突き上げる様な音の後に揺れるものと、いきなり揺れ始める様なもの、が絶え間なく続く。そして、「本震」の後にあまりに強くまた恐怖に満ちた「余震」があった。それは4月16日、1時25分に起きた。そう。それこそが「本震」だった。「ドンッ!」と突き上げるタイプの地震だったそうだ。

 

 

この2度目が致命的に建物を傷つけた。

 

 

また、歩道にしろ車道にしろ、舗装にヒビないしは大きな割れが見られたところは、ほとんど必ず補修工事を施した形跡のあるところか、マンホールがあるところであった。

 

 

他にも気になったことは、コンクリート舗装がなされている場所はところによって壊れ方が、異なる性質を持っていること。加えて、建物に入っているヒビに関しても縦のヒビと横のヒビの両方がある場所が見受けられた。これは地震の揺れ方が異なっていたことを意味しているのだろうか。

 

 

傾いた建物が道にはみ出し路側帯を歩くだけでも、恐怖を感じることもあった。尖ったままの木材が家から道路に飛び出しているところもあり、尖端が毛布で覆われているところもあるが、対策が必要なように思われる。

 

 

完全に倒壊しているわけではない建造物で、極めて微妙なバランスを保っていて、もし万が一、大きな揺れが再び起きた際に大きな混乱を招くであろう状態のモノも見られる。早急な危機の除去つまり取り壊しが求められるが、現地ではいまだ撤去をする余裕がないことが現実である。それは重機の不足、廃棄物の仮置き場の不足、ライフライン復旧のための人手不足といった種々の原因があるからと聞いた。

 

 

町中では、片付けが進んでいるが、ゴミを収める場所がなく道端に置かれ、歩道にガラスが散乱していたりと気にかかる点がある。ボランティアがこういったところにも目を向け動くと、少しずつだが確かに不安は取り除かれていく。避難所で出会った、長崎から来た吉村直子(仮名)さんは「近くに住んでいて、子育ても介護もなくて行ける環境にあったし、自分の目で見ておかないと、同じ気持ちになって応援できないから行かないとと思った」と言い、避難所の掃除や子供と遊ぶ、もちろん家屋の掃除にも大活躍していた。彼女は大切な小さなことも多くして罹災者を確かに元気付けていた。

 

避難所の町で

 

熊本は嘉島町。この町の嘉島東小学校に構えられた避難所を訪れた。この周囲は、建物が危険であることを意味する「赤い紙」と「黄色い紙」を貼られたところが多く、避難してきたおよそ100人が寝食を共にしている。朝7時に朝食、12時に昼食、17時に夕食を「必ず食べましょう」と集まり、互いにその日のことを話したり、震災に関する情報の授受を行う。

 

そして、寝る場所は小学校の校庭にテントを張ることで確保していた。ボランティアにも一部を提供している100を超えるテントを”ある人”が調達した。

 

テントを提供すると共に、この避難所では同じ”ある人”が「車中泊禁止令」を出していると言う。大切な支援物資に関しても、比較的豊富にあるが、この避難所をハブとして周囲に出しているため減りも早い。

 

余談だが、この嘉島町を歩き回り気づいたことに、非舗装道路の強さがある。舗装道路は傷つき、ヒビ割れやすいが非舗装道路は車両での通行がしづらかろうが、問題なく使えるため、極めて有用であろうことが見て感じ取れる。

嘉島町を案内してくれた男性は、「鳥の声が戻ってきて安心している」と語り、前震と本震前後の不気味な静かさがなくなったことに安堵していたことも印象に残る一幕であった。

 

”ある人”を訪ねて

この嘉島東小学校をまとめるリーダーのような存在。それは宮地元さん(60)。パワフルで若い元さんは、エネルギーに満ち満ちていた。キャンプ場を経営し、環境教育を行う元さんはテントを手配し、知識や経験を生かし、避難所の衛生や健康を保つことに気を巡らせ、また各家の片づけへの人の振り分け、安全な片づけ方を伝え走り回っていた。エコノミー症候群の防止のために「車中泊禁止令」を出したのも元さんだ。

 

ところが、一つ疑問があった。倒壊した家の片付けの方法をキャンプで学ぶのだろうか? そこで直接聞いてみると、元さんは阪神・淡路大震災、新潟県中越沖地震、東日本大震災の際には必ず現地で被災者と共に闘ってきたと言う。その時の経験と、近隣住民からの厚い信頼が−言い換えれば元さんその人がこの避難所を支えていた。

 

それだけではない極めて大きな強みは、この地域には強固なコミュニティが形成されていたことが挙げられる。この地域の住民はそのほとんど全てが知り合いで、災害に対し即時に団結・協力する素地が築かれていたのだ。そのため、互いに得意なことや秀でていることを知っていて、自然と元さんを中心に避難所が営まれていたのだ。何よりも最大の強みは全員が「自然体」だったこと。悲観・悲壮に包まれず、みんなで生活をしていることだった。

元さん(左)と筆者(右)。

 

避難所の外で

避難所の外でとある決定がされた。それは「小学校再開」。避難所の人々は、教育の再開自体は喜び歓迎していた。ところが問題がある。いま嘉島東小学校の校庭に避難している人たちは、どうやら授業の再開と共に、立ち退かなければならないのだ。しかし、逃げられるような市の施設は解放されていない。家は半壊あるいは全壊で立ち入れない。行く場所がない。

 

言うまでもなく教育は大切で、止めたままにはできない。とは言え、罹災者の「生活」も守らなければならない。ある人は「せめて校庭の半分でも…」「機械的で無情なことがあるのが残念」とこぼす。

 

そして今この避難所に決定的に足りないものがある。それはヘルメットと踏み抜き防止用の靴の中敷。倒壊した家を片付けるのにその装備がなければ怖い状態だが、いまだにそれらはない。

 

立ち直る時には勇気と希望を目に湛えて欲しいが、発災から3週間。恐怖が残る。どうやらそんな被災地を明るく照らすのは快活に走り回り、笑い転げる子供たち。「共に生きよう」。そう言って私は熊本を離れた。

 

今回の熊本入りに際して、お力添えくださった静岡の皆さんに感謝します。そして何より、熊本の皆さん、温かく迎えてくださり心から感謝します。加えて、情報を都度くださった熊本日日新聞の福井さんに感謝します。

 

「共に生きよう!」

斉藤亮太【思想・哲学・宗教、政治、文化】

投稿者の過去記事

私に「社会不適合者だ!」と言ってくる人がいますが、それならば社会が私に合わせればいい。え? 合わせられない? そんなに能力低い社会なら変えないとねぇ。
座右の銘「まず疑ってかかるのが科学です」ー

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