意識高い系が陥っている「自己評価」について

私も計2年ほどの少ない時間とはいえ社会を変えていくことを目標とするような学生団体に所属し、ある程度の活動をしてきた身として、強く違和感を覚えることが一つあった。

 

それは、同じように活動している同僚の大学生たちの中に、「私たちは立派に活動してるのに、周りから『意識高い系』と揶揄されるのが嫌」という趣旨のことを語る人が少なからずいる、ということであった。それは、周囲のメンバーと喋っているときだったりSNS上での発言だったり、あるいはそういった趣旨の文章を発表していたりとシチュエーションは様々だが、そういった考えを持っているんだろうなというのが言葉や態度の端々からわかる人もいた。

 

「意識高い系」と言われる言葉はネットや若年層においてよく見られる言葉で、なんとWikipediaにも記事があったので引用すると、

「意識高い系(いしきたかいけい)とは、自分を過剰に演出(いわゆる「大言壮語」)するが中身が伴っていない若手、前向き過ぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人などを意味する俗称である。」

とされている。

 

もちろん、こうした言葉の常として個々人の感情や価値観、発言の場によってはこれよりもやや広い意味で用いられることもあるように思う。そして、自分が活動してきた団体に対しても、個人的に「意識高い系だな」という皮肉を込めた思いをずっと持ち続けてきた。

 

ただし、ここで問題とするのは、「意識高い系」とされる人その人ではなく、「意識高い」という言葉に含まれる皮肉なニュアンスが嫌、と言う人間についてであって、そこまで語の定義を突き詰めたいわけではないのでご理解頂きたい。

さて、「『意識高い系』とされる人が、その表現によって揶揄されたり皮肉られたりするのはなぜか」というところがまず大きなテーマとなろう。

 

一般に、ある空間において、場の空気や他人の思いを尊重しない人・できない人はその空間に馴染むことが難しく、あるいはマイナスの感情を持たれるであろう、ということは言えるはずである。それは友人関係や学校のクラスの中だけでなく、ネット社会や若者社会、「世間」といったところまで広げていったとしても、そこまで性質が変わるものではないと思われる。それぞれ「暗黙の了解」のような空気感があるのは、どのような空間においても変わらないと言えよう。

 

そういった状況において、前述のような「意識高い系」が揶揄の対象となるのは、

自分がやっていることを正しいと思い込み、

他の人たちの評価や考え方に寄り添うことなく、

現実に立脚した考え方をできていない(傾向がある)から

だと筆者は考えている。

 

学生などの中には、自分にその気がないのにこうした外部評価がなされることを恐れて、自己啓発・ボランティア・留学などを「意識高い系と言われないだろうか?」という懸念のもとで一歩を踏み出せない者も多いのだという。

 

私に言わせれば、そうした彼らの懸念こそ重要なものだ。そうした懸念を持つということは、他者が自分をどう評価するか、他人との関わりの中で自分がどう振る舞うかを現実的に考え、その中で他人の評価と自分の内面との間に安定的な状態を見つけようとする動きそのものだといえる。

 

そうした人こそ、自分一人で活動するときでも、組織の中で活動するときでも、ただの自己満足に終わることなく、「周りがどう受け止めるか」ということをしっかりと考えバランスを取りながらやっていくことができる。無意識的にそれをやっているか、あるいは意識したならもっと簡単にできるということだ。

 

 

もちろん、周囲の評価など気にせずに我が道を歩むタイプの人も(今の日本においてそういう人は減っているだろうが)いるのは確かだろう。だが、こうした人は周囲の評価に頼らず、媚びることなく自分の信念をもって進むことができているとも言える。少なくとも、「もっと俺を評価しろ」とか「なかなか評価されないのは社会の目が悪いから」とかいう言葉が出てくるのは、一般大衆に向けてというよりはパトロンのような存在を求めてというような場合だと思われる(この辺りは想像であるのでご理解いただきたい)。

 

だが、「意識高い系」に実際になって、「意識高い系と言われたくない!」「頑張っている人を悪く言うな!」と主張するような人はどうか。

これは周囲の評価をどう受け止め、それに受け入れられるための手段はないかと自身に問う姿勢とは真逆の、高く評価することを周囲(つまり社会)に要求するという姿勢であるし、「自分は評価されるべきだ」という傲りに似た感情が強く感じられる。

「まず行動を起こすことが大切だからだ」という反論をする人もいるが、自分だけが正しいと思い込み、周囲の人間の反応すら感じ取れない人を評価しようという気にならないのは当然ではないか?

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特に、何らかの団体に属し、その団体を成長させていきたいと思っている人であるなら、周囲を巻き込んでいく、より多くの人に認めてもらう、協力してもらうということがおよそ不可欠なはずだ。そして、何より重要なこととして、そうした活動の評価はあくまで他者がすべきものであり、自ら行っていいものではない。

これは、例えばある攻撃的な傾向のある人が、自分の態度について

「自分は怖くありません」、「怖い言い方してません」

と言ったとしても、自分がそう思っているだけであって、相手が実際に「怖い」と感じていたとしたら、どちらが「事実」とみなされるかということに似ている。

自分が「怖い」と感じられていることに対して、その人が行いを改めようとしなかったなら、状況は何も変わっていない。

 

つまり、自分の活動について「良い活動だね」と正当に評価してもらいたいのなら、そう評価されるために自分ができることがないか探す必要がある、ということだ。

そもそも、より多くの人に活動を知ってもらいたいのなら、温度差を感じさせ「意識高い系だねー」と線を引かれる時点でアウトなはず。

それを、「意識高い系集団」の、同じ価値観を持った仲間内だけで盛り上がって「そんなこと言われたくないよねー」と言っていたら何の成長も見込めない。

 

言ってみれば、そうして「意識高い系だよね」と批判してくれる人こそ、最良のフィードバックをもたらしてくれる人であるはずなのだ。そう批判してくれる人と同じ価値観や考え方を持った人には少なくとも受け入れられないということが分かるわけで、では「今後より自分(たち)の活動が評価されるためにはどのようにしていけばいいか」、という最大限に重要な問題に取り組む大きな足がかりとなる。

 

当然ながら、「意識がそこまで高くないかもしれない多くの一般人」は馬鹿にできるものではない。

「出る杭は打たれる」という言葉を使いたがる人はどんな立場にあっても多いが、本当に中身のある、魅力的な活動なら、正当に評価し応援してくれる人は際限なく出てくる。

自身の活動で人を巻き込んできた有名人は数多い。マザーテレサやマハトマ・ガンジーとまでは行かなくても、「成功した」とされる人の多くは、自分の考え方を評価してくれる人に支えられ、より多くの人に賛同してもらえたからこそ「成功した」と言われるのである。

自分の活動がそれに見合っているか、目の前の人に受け入れられるにはどうしたら良いか、そうした内省を常に心がけながら、厳しいフィードバックにも向き合うこと。繰り返して言うが、それができる人は多くないし、自分の感覚や団体としての感覚が他の多くの人からずれていってしまうことはむしろ確実である。だが、もしもこの積み重ねができるのなら、先は開けていると言って良いのではないかと思う。

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poncirus

投稿者の過去記事

京都大学法学部在籍。特定の思想を啓蒙するとかではなく、分野をまたいだ色々な見方で物事を捉えられるようにと思っています。

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