対話の価値とはなんでしょうか?

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どうも!今日は吃音者として書こうと思っている齊藤です。

人にしかできない能力に、言語を話すことがあります。相手との意思疎通を図るため、言語コミュニケーションを主に使う私たちは、話すことを当たり前と捉えている人が多いのではないかと感じます。

このように、対話は言語が全てと考えている人も少なくはないと感じますが、果たして対話をすることにあたり、言語を話すことだけで対話するひとがどれだけいるのでしょう?
対話では、言語を話すことだけでなく表情身振り手振り、形あるものを使い過去を説明することもよくあります。
また、手話や筆談など対話の手法は全体的には少ないですがそれでも多くの人が言語を話すこと以外のコミュニケーションを取って生活をしています。

こうした「普通に言語を話す」以外のコミュニケーションに価値を見出すとしたら何か?これについて考えて行こうと思います。
話せることが当たり前。
これは私が吃音者ではあれど、話すことに対しての思いが非吃音者とは違えど、この当たり前という考えは変わりません。
ただ、その私のようなものにとっての「話すことは当たり前」という状況が他の方からの違和感のある状況となることも多々ありました。そんなとき、普通に話せることと、言語を扱えるとではまた違うのということを思い知らされます、

私は言語を扱えますが、多くの人よりは「普通」には話せません。
だとすると、私が「普通」に話せないことで、私と相手との対話の価値は下がるのでしょうか??
そう考えている人も、少なからず今まで出会ってきた人の中にはいることは知っています。
しかし、話すことや相手と通じ合うことの価値は、普通に話せる人も私のような吃音者も耳の聞こえない、目の見えない、言葉がほぼまったく話せない方も変わらず平等ではないかと私は思うのです。
通じ合いたいという気持ちは誰も変わらず、通じ合うことでかけがえないのない何かが手に入ることはみな変わらないのですから。
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例えば、大勢の前で発表することに、言語が必ずしも必要になってくるか?
これについては、大体の人がはいと答えるでしょう。
発表とは、伝えたい気持ちをを大勢に伝えること。そうなれば自然と言語を話すことを連想するのは当然のことです。
ただ、そうなると言葉が話せない人は発表してはいけないということになります。本当にそうでしょうか?

そんなことはきっとないと、私は思うというより思いたいという意思が強いです。素敵な発想や、考えを持っているのにそれを言葉が使えないことだけでその機会が失われることはとても悲しいことです。日本人はせっかちな人が多い印象があり、伝えたいことを短く正確に早く話すことを要求する人が多いような印象があります。そのため、言葉がうまく伝えられなかったり、言葉を話せない人を嫌う人が多い現実において、言葉をうまく話せない人は、その機会がなかなか得られないと考えられます。
しかし、先ほども言ったように、通じ合いたいという気持ちは誰も変わらず、通じ合うことでかけがえのない何かが手に入ることはみな変わらないのです。

そう考えると、ここで損をしているのは発表できない人ではなく、発表される受け手の人々の方ではないのではないでしょうか。
例えば言葉こそ使えないが、社会を変える大きな発見をした、考えを生み出した人がいたとして、言語が使えないだけでそれを大勢に伝えることができなくなります。
私たちの多くは、この人と繋がるという大きな価値を、この人が言語が使えないという理由だけで作ろうとしないのです。
そんなのは勿体無くありませんか??
機会があまりに平等でないため、活躍の場が与えられない素晴らしい人々を見逃しているのが今の世の中のように思います。
話すことより聞くことが大事、これは小さい頃から教わっていること…これを正しく実行することが対話の価値の見直しに繋がるのではないのでしょうか?

ここまで、このように「聞く」ということや頑張って「話す」ということによる粘り強い対話が大切だということを述べてきました。
では、粘り強い対話を続ける、あるいは続けないことがどのような効果を生むのでしょうか?

まず、対話をポジティブな効果。私たちの世代にとってこれほど興味深いことはないでしょう。

恋人ができます。

対話が成功するとは通じ合うことであり、通じ合い理解し合うことが出来ると、人間関係で幸せを掴むことが出来ます。
彼女もしくは彼氏が欲しければ話すしかない!!それは吃音者でも吃音者ではなくとも同じことなのです!

逆に、対話が出来ない、あるいはしようとしないことのネガティヴな例はもっと深刻です。

恋人どころか友達が出来ない。

手を差し伸べてくれる心優しい人はいると考えられますが、その人と話そうとしなければその人との関係は一歩も前に進みません。
得られるものを自分から掴まないことになってしまうのです。
話すことが怖いという人は、一歩前に進みましょう!その一歩が足し算になっていくことであなたの世界は掛け算になってどんどん弾みをつけて広がっていくと言えます。

しかし、この話すことが怖い、話すことが得意ではない人を心の底から理解してもらい、「聞く」というが大切だと認識してもらうことは容易ではありません。

では、どのようにすれば、言葉を話せることがあたり前でなく、かけがえの無いものであることを伝え、「聞く」ことが大事だと皆が認識することができるでしょうか。
それは、幼い頃からの教育であり大学から研究するような複雑なことでは無いのでは、と私は考えます。

教育とは読んで字の如く教え育むこと、それは大学生に対しての言葉としてというよりも、やはり幼い子供達を対象とした言葉であると考えられます。
教え育む期間に、「話せること」の様に普段当たり前に捉えがちなものを、当たり前でなく掛け替えの無いものと「心に認識」させることが重要だと私は考えます。当たり前が当たり前じゃないこと、これを知らないと、当たり前が当たり前に出来ないことが悪という見方が生まれ、差別やいじめにつながってしまうのです。

言葉を話せることはかけがえのないことで、言葉を噛むこと、つっかえること、吃ることは決して悪じゃない。そう心に幼い頃に認識させることがもし出来たら少しでも今までとは何かがきっと変わり始めるのでは無いかと言えると私は思います。

 

どんな人とも繋がり、ネットワークを「話す」という今までの当たり前だけでなく、「聞く」というこれから未来の当たり前で作ることが、私たちが真に言語という価値を活かす手段になるのではないのでしょうか?

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最後までありがとうございます。

斉藤 かずき

斉藤 かずき[観光•言葉]

投稿者の過去記事

都内私大観光学部の三年生です。
0.数ミリでもいいから、誰かの心を動かせたらをモットーに学生ライターとしての活動を始めました!
日々疑問に思ったことを、文章に起こして皆さんはどう思っているんだろうか?ということを知りたくて始めました。
吃音症を幼い時から患っており上手く話せない時もあります、ですが吃音のおかげで知れたこともあります。吃音症方々も、良ければお話ししませんか?
多くの方との繋がりを得られますように。
Mail:kazuki_boyo21@yahoo.co.jp
Twitter:kazuki15xxxx

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