【議論】メディアって中立であるべき?

10月のSeiZeeのテーマは「メディアの在り方」です。
今月は、このテーマのもと、5つの小テーマ「芸能人にプライバシーは存在する?しない?」「メディアは中立であるべき?」「読み手のメディアリテラシーってなんだ?」「海外のメディアと日本のメディアの違いってなんだ?」「メディアは今後どうあっていくべきか」について、SeiZeeで活躍するライターさんの意見をもとに議論していきます。
今回のテーマは、「メディアって中立であるべき?」です。

 

 

「最近のメディアは偏っている」

ネットなどでは、こういった意見を度々見かけます。

メディアが偏ってはいけないという主張の裏には、メディアが本来中立であるべきだという前提があるはずです。

しかし、それは果たして正しいことなのでしょうか?

また、完全な中立を実現することは可能なのでしょうか?

今回は二人のライターさんに、「メディアは中立であるべきか」という題で、論じていただきました。

これをもとにメディアのあるべき姿を考えていきたいと思います。

 

事実判断に中立性を求めるが、価値判断には中立性を求めない

斉藤亮太

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事実に対して「私はこう思う」というものを表現することは、歓迎されることであり、否定はできない。そうであるならば、メディアに対し「あれはいい」とか「あれはダメだ」という価値判断の点において、中立を求める−「いい」とか「悪い」とか言わせない−ことは好ましくない。しかし、メディアがもつ不特定多数の人に「情報を発信する」という性質上、事実判断の点における中立性は求めたい。つまり、事実を事実として伝える努力は怠らないでもらいたい。事実に対して中立でありさえすれば、あらゆるメディアが事実に対する価値判断の点において中立でなくとも構わない。以上より、あくまで私は社説のような部分では中立である必要はないが、事実報道に関しては極めて厳格に中立(事実そのまま)の報道をすべきであろうと考える。

 

メディアにおける「中立」は、「常識の範囲内」でのものだ

福井健一郎

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デジタル大辞泉の解説によると、中立とは「対立するどちらの側にも味方しないこと。また、特定の思想や立場をとらず中間に立つこと。 」とされています。これを厳密に守ろうとすれば、過激派の言動ですらも現状維持派の考えと同列に報じなければならなくなります。そうならないのは、メディアはある程度国民の共通認識、すなわち常識に基づいて行動するからです。ですからメディアにおける「中立」は、「常識の範囲内」でのものと考えるのが適当でしょう。

では、この前提の上で、メディアはどうあるべきか。私は「中立を目指しつつも軸を崩さない」やり方が望ましいと考えます。ジャーナリストの佐々木俊尚さんは、自身のサイトでこう述べています。

「モジュール化されたジャーナリズムにおいては、各モジュールはそれぞれの構造や価値観に基づいて独自のやりかたで情報をフィルタリングする。そこでどの情報が取捨選択されたのかは、つねに可視化されている。当然、モジュールにはバイアスがある。しかしそれらのモジュールは「自分は客観中立である」というような嘘を述べたりはしない。バイアスを自身が持っていることは承知のうえで、そのバイアスを公開することによって公平性を担保しているのだ。

そして情報を受け取る側も、それらのモジュールに内在しているバイアスを織り込み済みにして、情報を受け取るのだ。そのようにして結果的には客観性は保たれる。 」

出典:客観中立メディアなど存在し得ない | 佐々木俊尚公式サイトhttp://pressa.jugem.jp/?eid=204

メディアに中立はありえないということは、既に多くの方が述べています。もし無理に中立を目指そうとするならば、どのメディアも当たり障りのない報道に終始せざるを得ないでしょう。それはもはやメディアとしての機能を喪失した存在です。

メディアが自らの見解を露骨に示すのは望ましくありません。その意味で中立を目指していくべきですが、ある程度の偏りはむしろ健全な言論を喚起するものでしょう。報道にバイアスがかかるのは仕方ないということを前提にして、情報の受け手がそのリテラシーのもとに利活用することで、メディアの傾向に左右されない判断が可能になると考えます。

 

さて、斉藤亮太氏は、メディアの役割を事実判断と価値判断の2つに分けて考えています。

メディアの行う事実判断とは報道のことであり、価値判断とは主張のことです。

よってここからの考察は、メディアの役割を報道と主張に分けて進めていきます。

 

報道に求めるべき中立って?

まずは報道について考えていきましょう。

斉藤氏は報道は中立であるべきと述べています。

では報道の中立とは一体何なのでしょうか?

1つの例を紹介しましょう。

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以前麻生財務大臣の発言が、このような見出しで報じられたのは覚えていますか?

「90歳にもなっていつまで生きているつもりだ」

この発言は多くのメディアに取り上げられ、各方面からバッシングを受けました。

しかし、実際この発言は、文脈の中の一部分でしかありません。

実際はこうだったのです。

「(個人金融資産)1760兆円、現金で900兆円あります。そのお金がジーっと寝ているんだ。金は無い時は貯めるのが目的になるさ。しかしあったら、その金は使わなきゃ何の意味もない。90にもなって老後が心配とか訳の分からないことを言ってる人がテレビに出てたけれど、いつまで生きるつもりだよと思いながらテレビ見てましたよ。」

この一連の流れで見ると、発言の意図が90歳の老人への暴言でないことは容易にわかるはずですよね。

確かに麻生氏の言葉のチョイスは少々過激で、誤解を招きうるものです。

しかし、あくまでも伝えたかったことは、先の長くない老人がお金を使わずに持っておくのが、経済のためにならないということです。

でも、多くのメディアは先ほどのような見出しで伝えたました。

情報の受け手はメディアのことをある程度信頼しているし、実際どうだったかを確認する人は少数だと思うので、多くの人は『麻生さんが暴言を吐いた』と思ったに違いありません。

こういった例は、メディアの報道の中立性を著しく欠くものです。

では、メディアの求められる報道の中立性とは、何でしょうか。

斉藤氏は「事実報道に関しては極めて厳格に中立(事実そのまま)の報道をすべきであろうと考える。」と述べています。

事実そのままの報道をするためにはどうすればよいのかを考えていきます。

メディアの行う報道は一次情報を受け取り、二次情報として提供することです。

 

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※一次情報とは、直接見たり聞いたりすることで得られる情報であり、二次情報とは、メディア等から通じて受け取る情報のことです。

 

私は「一次情報を二次情報に変換する際に、一次情報の核となる部分を残しながら不必要な部分を削ること」が事実そのままの報道に必要だと考えます。

一次情報と二次情報では情報量が圧倒的に違います。

街頭インタビューにしても、話者の言葉や表情だけでなく、場所や時間帯、はたまたその場の空気感までもが一次情報なのです。

しかしこれら全てを二次情報として提供することはできません。

メディアには時間的、空間的な枠が存在するからです。

だからメディアは得られた情報から、伝える部分を取捨選択しなければなりません。

この際メディアは、報道の真意が情報の受け取り手に伝わるのに必要な部分は必ず残し、誤解が生じないように最大限の努力をすることが必要となるのです。

このようなプロセスを経て、『事実そのまま』の報道が可能となります。

けれども、もし各メディアが同じような意識で二次情報を提供したとしても、各メディアの報道が一致することはないでしょう。

なぜなら、メディアによって残す情報と残さない情報を選択する”基準”が違うからです。

この”基準”は当然中立を目指さなければなりませんが、”基準”を決めるのが人間である以上、完全な中立は不可能です。

中立が不可能なら、どんな”基準”に従ってもいいのかというと、そういうことではありません。

ここで重要なのが福井氏の述べた「常識の範囲内」です。

何を伝え、何を伝えないかの基準は、世間一般の「常識の範囲内」で決定されなければなりません。

常識と言うと、少しぼやっとした言葉のように感じる人も多いかもしれません。

しかしぼやっとしながらも、共通認識として確かに存在するというのは感じられるでしょう。

「常識の範囲内」で情報を取捨選択することが、福井氏の述べる報道の中立性です。

メディアは世間一般の「常識」を常に意識し、一次情報から二次情報へと変えなければならないのです。

 

じゃあ主張はどうなの?

つぎに主張はどうなのか考えます。

斉藤氏は、社説などの主張に関しては、中立である必要はないと述べています。

実はメディアの役割は事実を報道するだけではありません。

あまり知られていないことでありますが、権力の監視というのもメディアの重要な役割なのです。

そして権力の監視を行うため、またその主張へのカウンターのため、各メディアは社説などで主張を行います。

ここでメディアの話とは少し逸れますが、主張とは何かを考えます。

主張とは自分の意見を強く言い張ることです。

主張を行うとき、そこには自分なりの思想があり、根拠があり、意図があるはずです。

「私は特に思うことがありません。」

こんな主張をする人はいないでしょう。

福井氏の引用より、中立とは「対立するどちらの側にも味方しないこと。また、特定の思想や立場をとらず中間に立つこと。 」とあります。

つまり主張というものは、その性質からして、中立とは相容れないものなのです。

よってメディアが権力の監視のために主張を行う時、それが中立となることはないのです。

メディアの主張が中立でなくてもよいというのは、必然的な話なのですね。

 

メディアの主張を受け取るのに大事なこと

メディアが主張できるのは、当たり前のことではありません。

異なる思想を持つメディアが複数存在して、それぞれが主張を行うことで、全体としてバランスをとっているのです。

だから私たち情報の受け取り手は、一つのメディアの主張を鵜呑みしてはなりません。

複数のメディアの主張を比べ、最終的には自分自身で答えを出さなければならないのです。

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これは福井氏の言うように、読み手のリテラシーに関わる問題です。

読み手のリテラシーについては別のテーマとして記事にする予定なので、そちらを参考にしてください。

 

さて、『メディアは中立であるべき?』というテーマについてまとめます。

・メディアの役割は報道と主張に分けられる。

・報道は中立を目指すべきである。中立とは「常識の範囲内」のものである必要があり、メディアは常に世間一般の常識を意識しなければならない。

・主張は中立でなくともよい。主張が中立であることがないからだ。

・正しい情報を受け取れるかは、最終的に読み手のリテラシーにかかっている。

 

あなたはメディアと中立、どう思いますか?

意見、募集しています。

seizee編集部

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当メディア『SeiZee』の編集部です。
「読んだらちょっと、考えちゃう」をテーマに記事発信しています。

昨年末から、モスク、競馬場などへのインタビューに力を入れています。

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