数字だけで分かっているつもり?

我々は様々な情報と日々接する。それは例えば阪神が4-33で敗北したとか、富士山の標高は3.776mだとか、消費税が3%上がるとかだ。この情報をキャッチした我々は、その物事を知った気になる。しかし、本当に知ったと言えるのか、大いに疑問な時がある。

 

先の例にある4-33で阪神が試合に負けたという情報だけでは、我々は阪神が負けたということを本当に「知っている」とは言えないのではないか。もしかしたら、阪神という草野球チームがロッテというプロ野球チームに負けたのかもしれないではないか。さて、いずれにせよ、我々がどのくらい対象物に関する情報を持った時に対象物を「知っている」といえるか、は一考に値する。

 

サンテグジュペリの著『星の王子さま』の中に、「ぼく」がこんな風に語る部分がある。「大人は数字が好きだ。新しい友達ができたよと言っても、大人は大事なことは何も聞かない。「どんな声の子?」とか、「どんな遊びが好き?」とか、「チョウチョを収集する子?」などとは聞かない。聞くのは「その子はいくつ?」とか、「兄弟は何人?」とか、「体重は?」とか、「お父さんの収入は?」などということばかりだ。こういう数字を知るだけで、大人はその子のことをすっかり知ったつもりになる。」(『星の王子様さま』、サンテグジュペリ、池澤夏樹訳、集英社文庫、p.23)

 

ここで「ぼく」は、大人たちは「新しい友達」の年齢、兄弟の数、体重、親の収入といった数的に捉えられる情報を要求するが、「新しい友達」の声や好きな遊び、趣味などといった「大事なこと」に関する情報は要求しないと指摘する。つまり―恐らくここで言う「大人」とは、「現代人」と置き換えても差し支えないだろう―我々を含む「大人」は客観的に物事を判断できる数字を重要視するあまり、そのものが持つ「性質」や「美徳」といった「大事なこと」を見落としているのではないか、ということだ。

 

 

思い起こしてみると、国会や地方議会における議論も同じく、「この経済政策を行うとこれだけの経済成長が見込まれます」とか、「この緊縮策を採用すればこれだけの財政健全化がはかれます」とかといったものばかりである。私はこの種の議論に疑問を抱く。たしかに、数字的な要素を議論し、議員が「知ったつもり」になり施政を行うことは実際上行われているし、大切なことだ。そうは言っても、その政策がもつ「性質」や「美徳」に目を向けない政治は、表層しか見ずに行われているに過ぎず、「大切なこと」を見失っている恐れがある。

 

一見、現実的で必要と解されうるような政策が、実はその深層部分で、何らかの道徳的規範や美徳に動揺を与えることがある。例えば、9.11テロの際、ワールド・トレード・センターに2機の旅客機が突っ込んだ後、アメリカ政府はさらに突っ込もうとする飛行機を撃墜せよと軍に命令を下していた。アメリカ政府の指示は被害を拡大しない為に必要な指示だと言える。しかし、ハイジャックされた旅客機には無辜の民が搭乗している。テロで使われる旅客機を撃墜することは、テロリストとともに彼らを殺すことを意味する。テロリストが殺されても仕方ないとしても、無実の乗客の存在にも関わらず撃ち落として良い根拠は何だろうか?

 

この話については、新たなテロ旅客機を撃ち落とさないことによって想定される新たな被害を鑑みれば、恐らく現実的にその飛行機を撃ち落とすのは当然と言えよう。とはいえ、それを振り返ったり、評価する時にその深層に存在する「性質」に目を向けるのは有意味ではないだろうか。

 

数字で表層を知り、すべてを知ったつもりにならず、数字を知りつつその深部に存在する「性質」や「正義」に目を向けることによってこそ、我々はよりよくそのものを「知っている」と言えるようになるのではないだろうか。

斉藤亮太【思想・哲学・宗教、政治、文化】

投稿者の過去記事

私に「社会不適合者だ!」と言ってくる人がいますが、それならば社会が私に合わせればいい。え? 合わせられない? そんなに能力低い社会なら変えないとねぇ。
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